2009年6月10日水曜日

入門実習日誌(小豆島)その5

▼日誌のブログ公開は以下の分までにしときます。

一日目の町歩きは、だいたい紹介できたしね。






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歩く
(ここからの道程は写真を見ながら・・・文章が少なくなります)

夕飯集合まであまり時間もない。
結局、あの幽霊ビルのようなところで休憩した以外は、まっすぐエリエス荘まで歩き続けた。
図書館からエリエス荘までは、八幡神社の大きな鳥居下を道なりに歩いていけば、金両醤油の三叉路に出てわかりやすかった。
車と一緒に歩くだけのだいたい徒歩1時間くらいのコースだった。



有形登録文化財の店や工場を数えたり、途中で通り雨に降られたりしながら歩いていると、17時過ぎに醤油調査隊からのメールが届いた。

一番最初に届いたSくんからのメールに醤油隊は全員宿舎に戻っていると報告があった。

しかしその後も醤油隊メンバーひとりひとりから個別に帰宿報告がメールで届いた。


その一個一個のメールに対して「了解しました。お風呂もう入れるので」などと歩きながら返信したのだけど、数分後、その全てが送信できませんでしたというメッセージが届いた。

2・3回再送信したが、全てダメで、だいぶゲンナリした。

雨に降られても、行きのマイクロバスの中でKくんが「ロード・オブ・ザ・リングの山みたいや」と表現したと思われる山の緑が美しい。

別の宿かサイクリングセンターで借りた白いレンタル自転車に乗った3人の女性が、戸が閉まった一徳庵の前で雨宿りしていた。

黄色いレンタサイクルに乗っている人も見かけた。
エリエス荘までの途上にあるネオオリエンタルホテルで返却しているのを見かけた。


”幽霊ビル”のあるカーブを曲がると坂手港一帯が視界に入る。

実は、一度足を伸ばしてみたいと考えていたのは、坂手港の山手に広がる広い墓地だったりする。

そんなふうに思っているところで、ビルの道路向かいに下へ続く寂れた通路トンネルに出会った。

これは入ってくれということだろうと思って、通路階段を下った。

下ると、すぐに海辺に出て行き止まりだった。

空き缶やスナック袋のゴミだらけで居心地もよくないので、すぐに上にもどる。

上にもどりついでに今度はビルの入り口まであがって中を覗いてウロウロしていた。

中も写真とっちゃおうかなと考えていると、サイクリングスーツ姿の男女二人組も休憩がてらにやってきてジロジロガン見された。

なんかしゃべろうかと思ったけど、疲れてきたのでやめる。
カップルだし。

眼下に見えるエリエス荘までゆっくり歩きはじめたら、自転車のFくんに後ろからスウーっと抜かれていった。

<中略>

エリエス荘に着くと、女将さんが猫と一緒に花壇の並びに腰かけて両足をぶらぶらさせていた。
「お帰りなさい。どこまで行ったんですか」と聞かれ、簡単に道程を報告。
歩いたことに驚かれ、お風呂入れますよ、と言葉をもらう。
しばらく立ち話を続けていると、なんとなく話は坂手の港と景気についてになった。

・・・・・関西汽船の定期航路がなくなってすっかりお客も少なくなって。
以前は関西汽船のサンフラワーというそれは大きな船が来ていて、港に来ると宿なんかはとても小さく見えたんですよ。
「サンフラワー、僕も見たことあります」
関西汽船も1000トン級の船じゃなくて、500トン級の船でもいいから運行を続けていたら良かったのに。
この前、高速道路が休日1000円で使えるようになったけれど、小豆島に車で来るのだと、まだ船で10000円ぐらいかかって、それは高い思いますわねぇ。
定期便はいつの間にかシーズン便になって、そのシーズン便も7月8月9月のシーズンだったのが、9月がなくなっって7月8月になり、そのうち7月のもなくなって8月だけになったけど、8月の便もだんだん一日(いっぴ)からじゃなくなくなり、月末までだったのも、だんだん20日過ぎでとりやめになったりで、もうどんどん少なくなって。
その便も昔は、大阪から神戸行くっていうふうに、まわってからきたのに、今じゃ、大阪の南港からだけになって。
時間も、朝、8時に大阪出るって。
そんな早いのにねえ。
それでここに着くのが11時30分に着くっていうので、私ももう時間が気になって、イライライライラして・・・ホホホホホ。
・・・・・・
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▼ この後に続く日誌は、
▽1日目夕方
「NくんとOくんの連絡とれないの巻」
「二人は福田じゃなくて池田まで自転車で行って、オリーブの話を聞いたの巻」

▽2日目朝の散歩日誌。
「朝、墓地へ行こうとしたが、町の清掃活動でみんなが作業してたので気後れしていけなかったの巻」
「漁協を探しがてら半島の先まで歩こうとして、小さな漁港とビーチを見たが、かわいい犬たちに囲まれて唸られたの巻」

▽2日目午前の活動日誌。
「醤油隊を追いかけたが影も形もつかまえられなかったの巻(ケータイすればいいだけだけど)」
「見失ったのをいいことに、自転車で馬木散策をしていたの巻(写真つき)」
「ダムが見えてきて、ダム建設の話がタイムリーな問題としてあったことを思い出したの巻」
「悪いことはできないもので、坂道を登ったり下ったりしてたら、本気で気分が悪くなってしまったの巻」
「休憩がてらまた図書館に寄って、今度はちゃんと地図も見てきたの巻」

などの報告内容があります。
略させていただきます。



▼注
現在の小豆島町は明治23年や昭和26年に何度か村の分合や合併が行われ、池田町と内海町にまとまったそうです。さらに近年、平成18年の合併で、池田町と内海町によって、小豆島町となりました。平成18年の合併により、小豆島内は、土庄町と小豆島町という行政区に整理されました。
面白いのは、さらに長い歴史の中で、島外部からもさまざまな扱いを受けてきたらしいということです。徳川時代には池田・内海は天領地になっていたそうですが、これは醤油が目的だったのでしょうか。池田地区の方はやがて津山藩に吸収されたとのこと。
明治以降は、岡山県の一部、香川県の一部、兵庫と徳島県の一部、香川県の一部、愛媛県の一部となり、5県の歴史に関わった経緯があるそうです。僕も最初は何県に属するのだろうかと思ったのですが、実際歴史的に見ても複雑だったのですね。

入門実習日誌(小豆島)その4

バスに乗り遅れ、歩き回りたくなる
次のバスは17時09分。
坂手港には17:30分頃着になる。
微妙に中途半端だ。
ここで時間を過ごすにも、今いる場所は公園の他は特に何もない。
バス停とバス時刻のややこしさと、この失敗はおもしろいけど、今日はみんなのエピソード優先の日にして、黙っていよう。
日誌で報告することに決めた。

このへんで、誰かと話し込んで簡易インタビューしようかと思ったが、町立図書館の場所などの状況を確認したかったし、こうなったら町歩きしたいなぁと思って、使いたくないけどタクシーを探すことにする。
オリーブ・ギャラリーから出てきた50代くらいの男性に話かける。
オリーブの話を聞けたらと思ったが、スラックスにワイシャツの男性は、あまりそのような関係者に見えない。
催事場の手伝いに来ているだけだという。
そこで話を続けようとしたところで、ちょうど向こうから空きタクシーがやってきた。

すぐにタクシーの方へ乗り込むと、タクシー運転手の60代くらいの男性は、船舶関連に詳しい人だった。
聞けば、息子さんは海上保安庁に航海士として勤めているという。
しかし、この話を聞いてどう受け取ったらいいのか少しとまどった。
たとえば和歌山の那智勝浦に行ったときに、旦那さんや先代の方は鯨漁師であったというエピソードが出てくると、それ自体、地域ではかなり名誉なバリューを持つ事柄なのだが、今聞いた話は小豆島ではよくあるエピソードなのか、社会的価値が高いものなのだろうか。
運転手さんの話ぶりは、かすかに誇らしげに聞こえたのだが。
しかし、このことを確認する前にいろいろと目の前に見えるものについてたずねてしまった。
行きのバスの車窓越しに見た港湾内に浮かぶ大型船は、まだ同じところに停泊している。
あれは国土交通省管轄の船で大型船舶操舵の2級海技士を教育するための1000トン級の○○(聞き取れず)丸という訓練船である。
3・4日小豆島を停泊所として早朝から動きはじめて晩まで何やら訓練らしきことをしている。
夜になると、大型船の灯りが美しく海に映えるらしい。
小豆島の内海湾には、一年に数回、こうした訓練船が訪れる。
小豆島に特に学校があるわけでなく、実習地となっているのだが。
内海に停泊中は、1日だけ休暇のように乗員が陸に上がってくる。
この前も若い乗員たちが集団で寒霞渓へ登っていった。
ただし、これもどうやら訓練の一環らしく、みんなでぞろぞろ登山していたそうだ(「運動上陸」という)。
そうした様子は昔から見ていたが、近年の特色は、女性の訓練生が増えてきたことだ。
こうして教育訓練船はやがてハワイ沖まで実習の足を伸ばすのだそうだ。
と、ここまで聞いていたら、内海の役場の前を過ぎ、図書館についた。


「町立図書館」
図書館の入り口には、「町立図書館」とだけ看板があった。
小豆島町HPに紹介されている町立図書館というのは、「小豆島町池田(旧池田町)」にある「小豆島町立図書館」だけである。
目の前にある「町立図書館」は小豆島町のHPには掲載されていない。
小豆島町役場は旧池田町の中心にある。

図書館の向かい側には道路をはさんで古い神社跡と広い空き地があり、空き地の向こうには古い木造立て小学校のような建物がある。。
醤油直売所と看板があったので、近づく。
高橋醤油というその工場は、文化庁指定の登録有形文化財になっている。
直売所と書いてあるけど、ガラスケースに製造製品が飾られているだけで、事務室らしい場所の他に売店があるように見えない。
事務室のドアの前でボウーっとしていると、白い帽子に白い作業着の女性が2・3人、あわただしくドアから小走りで出たり入ったりしはじめ、声をかけそびれる。
すぐそばに見える八幡神社の大きな鳥居を写真におさめる。
高橋醤油のそばにある玉姫神社と、その境内にある高橋醤油創業者の高橋実造さんの銅像も写真に撮る。


広場にあるジャングルジムで子どもたちを遊ばせている30代くらいに見える黄色Tシャツの男性が、何度もチラチラこちらをうかがっている。
町立図書館に入る。
こじんまりとした2階立ての図書館で、図書とAVスペースが1階に多目的スペースが2階になっている。
子どもたちがにぎやかに出入りしていて、小さな子どもを連れたお母さんらしき女性が3・4人図書の付近に見える。
60代から70代くらいに見える男性が新聞を読んだり、小説を読んだり、居眠りしていたりしている。
40代から50代に見える男性が一台しかないPCでインターネットを見ている。

お目当ての郷土資料コーナーは1階奥の階段の脇のスペースにあった。
そこだけ電気が消えている。
コの字型のそのコーナは、どんつきが郷土に関する文学資料で、両脇は、香川県コーナーと小豆島コーナーになっている。
コの字の真ん中にはまたひとつガラス戸のついた本棚があって、壷井栄の原稿や初版本が表紙が見えるように陳列されている。
香川県コーナーには、地誌や県の統計情報や各種一般出版社からの書籍の大型本が並んでいる。
印象深いのは、小豆島コーナーの図書の並びが乱雑なことである。
特に、小説など動きの少ない本のとなりにある、ファイリングした報告書や、民俗書籍のコピーや大型本があちこちに飛び出して並んでいる。
記念に写真に撮りたいくらい乱雑さが不思議な光景。
島の郷土資料として小豆島郡や小豆島町の郡誌や町史という書籍はない。
小豆島内のそれぞれの町単位で、たとえば方言とか食べ物とか祭り・民俗に関する報告書はちょっとずつあるが、まとまった形の図書や、すべての町を揃えてある感じはない。
統計資料も開発にかかわる計画案が目立つがそのほかはあまり多くはない。
醤油の歴史、オリーブの歴史も2・3目につくだけ。
醤油記念館を記念した出版物はある。
多いのは、小説・歌などの文学関連の書物。
「るるぶ」など観光案内出版物もそれなりにある。
観光案内の情報誌はむしろ図書館ではあまり見ないようにも思う(”民業を圧迫することになる”からという話を別の自治体で聞いたことがある)。
なぜか小豆島コーナーには文学作品と並んで浜田寿美男さんの心理関係の研究書が何冊もある。
浜田さんは小豆島の出身なのだろうか。
「自白の研究」は無かったけど。
浜田さんの研究では、「自白の研究」という大著があまり心理心理してなくて面白くて・・・・・・無駄なノーツはここでやめる。
住宅地図を見たかったが、僕よりも先に50代くらいの男性が図書館員に探してもらって見入っていた。
チェックの襟付きの半袖シャツにコットンのパンツ、白髪の男性の話すことばは関東の方の言葉に聞こえたが、ゼンリンの住宅地図で、どうやら小豆島の霊場を全てチェックしているようだった。
時間がかかりそうで、時刻も17時前になろうとするので、地図は諦めて図書館を出る。
ちなみに図書館は、午前10時から午後6時まで。
明日、日曜も同じ時間で開館している。

エリエス荘までは、もちろんいい時間帯のバスは無いので、歩くことにする。


---その5へ

入門実習日誌(小豆島)その3

オリーブ記念館
坂道をハアハア息を切らして登りながら、Nくんに電話する。
「勘違いだったので、今からそっち行くわ」と言いながら、現況をたずねる。
オリーブ作りの体験を聞けそうな人が見つからない。
やはり記念館は施設に過ぎないので、窓口の施設の管理人は役場の人と変わらない、というところだろう。

「道の駅・海の駅」とも銘打たれたオリーブ記念館の休憩コーナーで二人が長イスに座っているのを見つけた。
ちょっと見回ったが、記念館は観光用売店があるだけで、まとまった資料も置いてなさそうだった。
事務室にはあるだろうか。
聞いてみたら中からなにか出してくれるかもしれないなと思う。
それとも土庄町方面まで行かなきゃ無理だろうか。
この制限時間の中で優先したいのは、現地を見る・聞くということだし。
とにかく二人にアテか計画かあるのかを聞いてみることにする。
予定を変えて、オリーブ記念碑を見届けてから、オリーブ畑で人をたずねることにするという。

ところで、二人ともお昼を食べてないということだったので、ここでいったん一区切りにして昼飯を食べようという話になる。
休憩コーナー2階の軽食喫茶はすでに食事は終了で、喫茶のみになっていた。
となりの宮殿にはレストランもあるそうなので、そちらに行く。

駐車場にオリーブ公園バス停があることに気づく。
念のため、バスの時刻を確認する。
オリーブ公園ー映画村/土庄行きの巡回バスという時刻表と、小豆島バスの時刻表が上下に二つ並んで掲示してあった。
巡回バスの方は1日3・4本のうち2本だけが映画村方面で、まったく時間が合わない。
小豆島バスは、先ほど乗ってきたバスだ。
さきほどの運転手さんは、「坂道上ってオリーブ公園に行く」と言っていたので、帰りはここから乗って帰ることにし、時刻を確認する。
坂手港方面へは15時59分着と書いてある。
「さっき坂の下のバス停で見た時間と同じ」じゃないかと二人に向かってぶつぶつ言いながら、レストランへ向かう。

眺望の良い、小豆島オリーブ公園のレストランで、ビーフカレーを食べてしまう。
Nくんはイカ墨スパで、Oくんはハンバーグである。
1000円以内で食べられるものがそれくらいしか無かった。
バスの時間もあるので、かき込むように食べることになった。
いろいろ話していたところで、15時45分くらいとなったことをOくんが指摘し、バス停に向かう。
レストランに携帯を忘れるがすぐに気づきことなきを得る。


バス停・オリーブ公園
新たに訪問先を開拓に行った二人に別れを告げ、バス停近くで喫煙する。
観光客の子どもたちがモニュメントに乗りあがり、母親に怒鳴られた。
4・50代の二人連れ男女が、バス停近くで海を背景に写真を撮っている。
車2台でやってきた若者たち8人には一人だけ、母親のような年齢の女性が混じっている。
若者の一人はガンバ大阪、他にもう一人どこか海外クラブのレプリカユニフォームを着ていた。

海を眺めてウォーと叫ぶ彼ら越しに僕も海を眺めてタバコをふかしてたら、頭が次第に動きはじめ、突然、イヤーな感じに襲われた。

オリーブ公園口のバス停とオリーブ公園のバス停とバスの発着時間が同じ!!

それっておかしいと思わないのか--->オレ!


あわてて、時刻表を確認する。
時刻表は上下2枚。
下の方の小豆島バスの時刻表には、欄外に説明が書いてあった。

”坂手・映画村方面には、オリーブ公園口から小豆島バスがあります。この時刻表をご参考ください”

詳しい文面は覚えていないが、まず、文章を読んですぐに坂道を駆け降りはじめた。
つまり、オリーブ公園のバス停には巡回バスだけが来るのであって、小豆島バスの坂手港方面行きは坂の上まで上がらずに、坂の下のオリーブ公園口からまっすぐ国道を走っていくってことだ。
なんで行きと帰りでバスのコース違うねん。
さっき乗ったバスも小豆島バスやったのに。
参考の時刻表って何?
やられた感をつのらせながら、公園を駆け降りる。

時刻は15時58分。
無理矢理かきこんだビーフカレーが腹にもたれてしんどかった。
走る気はないが、とりあえず走ってみる。
オリーブ公園口には、16時6分くらいに着いた。

バスの気配はなかった。


---その4へ

入門実習日誌(小豆島)その2

バス停・オリーブ公園口
オリーブ公園口というバス停が近づいてきた。
山手には白亜の宮殿のようなしかしそれでいて素っ気ない装飾の建物が見えてきた。
なんじゃありゃと思う間もなく、バス停についた。
国道のすぐ横の海岸沿にはなにやら真新しい施設と砂浜も見える。
エリエス荘から拝借した地図には、その位置にはオリーブ資料館と記載されている。
下調べでの段階では無かった気がする。
見落としてたのかなと、地図を見ながら考えていた。
自転車の二人はまだ到着してないだろうし、後で合流したときに調べ物もしやすいだろうと思い、資料館とやらを覗いておくことにする。
15時20分前。
オリーブ公園口で下車する。
降りようとするとバスの運転手さんに声をかけられた。
整理券のことじゃなくて、行き先のことだった。
バスはこれから「坂道を上って、オリーブ公園まで行くんやけどここで降りるんでいいんですか?」と聞かれる。
地図を見せながら「オリーブの資料館に行きたいんです」と告げると「ああそうなんか」と納得された。
バスを降りると、真新しい「オリーブ・ギャラリー」という建物が目の前にある。
ともかく帰りのバスの時間が気になるので、とりあえず道路を反対車線に渡りバス停をチェックする。
坂手港行きが、15時59分着とバス停の時刻表に書いてあった。
1時間もない。
次は17時過ぎまでバスはない。


オリーブ・ギャラリー
ギャラリーの背後にはきれいな砂浜のビーチが広がる。
ギャラリー駐車場の車止めには、スイムスーツの女性が一人座っている。
きれいな砂浜ビーチの水際には、僕よりも年齢の高そうな女性が6人ほど海を眺めながら立ち話している。
10メートルほどの桟橋には、大学生くらいの年齢の若者が3人、輪になって何やら騒いでいる。
オリーブ・ギャラリー裏のこのビーチは、海水浴場として利用するらしく、海の家と簡易シャワーの施設がある。
まだ海開き前なので、海の家は閉まったまま。
一通り、写真を撮ってからギャラリーに入ろうとするとNくんから電話が入る。
もう、オリーブ記念館についている、という。
「早っ」。けっこう遠かったよなーなどと言いながら、たぶん、僕が入ろうとしている建物がオリーブ記念館だと思い、中で話しましょうと電話を切る。
しかし、中に入ってもNくんとOくんがいない。
というより、誰も客らしい人がいなかった。
吹き抜けの2階があったのであがってみると、写真展が行われていて、関係者の方らしき白ワイシャツにネクタイの50・60代の男性と40代近くに見えるスーツの女性たちがいっせいにこっちを振り返った。
なんか、間違ったみたい、と思いつつ、1階に降りて受付窓口の女性にたずねてみる。
記念館は、坂を上がったところにあると言われる。
ああ、あの白い白亜の宮殿みたいなやつですね、というと、それは別の施設でそのとなりだと言う。
いずれにしても、あの坂をあがらねばならない。

バスの運転手のお告げを聞いておくべきであった。

---その3へ

入門実習日誌(小豆島)その1 ボケボケの一日

○1日目の記録です。
数回に分けてアップします。
宿に着くところからです。
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港からエリエス荘までの送迎マイクロバスは船よりも揺れた。
峠を過ぎて町並みが見えてくると、散歩したいという思いが強くなってきた。

自転車隊 出動
14時25分頃
挨拶もさっさと済ませて、すぐに自転車の利用の確認と、バス停の位置の確認、ロビーに貼ってあるバスの時刻表の確認をする。
バスでオリーブ公園に行くとすると、宿についた時間からもう10分くらいしかない。
宿の玄関先にいるNくんとOくんを探して急ぐかどうするかたずねると、自転車で行くという。
オリーブ公園自体が目的じゃなくて、オリーブ作りの体験談が聞きたい。
でも、特に当ても作ってないから、とりあえず向こうに行って人にたずねてみる、という。
僕も行くわ、というとバスで来てください、と言われる。
とりあえず、チェックインを済ませる。
K先生が、タオルと朝風呂の件をたずねる。
タオルは150円でフェイスタオル買い取り。
朝風呂なし。
Kくんが女将さんに「ここ古いんですか」と聞いていると、最近の景気の話になり、インフルエンザ禍により、キャンセルがひどいという話が出てきた。
ここでもなのか、と思い、興味に火がつきはじめ、つい「おもしろそうな話があった」と失言してしまう。
続いて部屋割り当て。
なぜか人数分以上に部屋のキーが渡される。
2階に行ってわかったのは、2階全部全部割り当てられたということ。
お好きにしてください、ということかなあ。
15分後にロビー集合とする。
ロビーのソファでK先生と座っているとが宿から昭和を感じると話す。
集合15分後と言ったはずだと思ったが、14時15分に集合と勘違いした人もいた。
そういうわけで集まりがばらついたので、とにかく揃ったチームから発つことにする。
オリーブ組自転車は二人なのですぐさま出発した。
続いて、映画村隊と醤油隊が出た。
醤油隊は一番近いのでK先生に行ってもらうことを相談していた。
利用自転車番号をチェックしながら、なんか自転車は楽しそうだな、と思った。


図書館はどこですか
14時50分
みんなを見送った後、先生はどうするんですか、と女将さんに聞かれたので、僕はオリーブ公園へバスで行きますと話す。
バスの時刻は15時06分。
ともかく、1階のトイレの場所を確認してから、バス停へ歩く。
関西汽船が到着するシーズンに使うのか、日頃も来るのかわからないが、使っていない大型車両の駐車場を横切り、坂手港の記念碑の横を抜けていく(現在、関西汽船ホームページには、坂手港は08年4月1日現在の情報として「駐車場なし」と記載されている)。
記念碑の説明がされた石版はズタズタになっている。
壁一面のガラスドアにカーテンを閉め切っているJA香川県坂手の2階立て建物の横をすぎると隣に小豆島町役場の坂手支所があった。
小豆島町は、内海町と池田町が平成18年に合併してできた町。
島の名前は小豆島で、行政区として島は小豆郡になり、小豆郡の内部=小豆島の内部は大きく土庄町と小豆島町に行政区域が分かれている。
ああ、ややこしい。
こんなややこしい町名を島の人が普段使っているようには思えなかった。
実際、話してみると、さっきの女将さんも「池田」とか「内海」とか「坂手」とか言っている。
醤の郷は慣例的には「内海町」ということになる。
記念館などの住所は「小豆郡小豆島町内海」とかになるのだけど、いろんな資料では、「内海町の」という表現が出てくる。
小豆島町役場・坂手支所前を通ると、事務室らしき部屋のサッシが空いていて女性たちが談笑しているように見えた。
バスの時間まで十分あるので、思いつきで、事務室のソファでしゃべっているパーマ頭の女性に、「すいません、この辺に図書館ってありますかぁ」、と声をかける。
「図書館って内海にあったなぁ、あれどう教えたらいいんやろ」、とその女性は事務室の別の同年代くらいの女性に声をかけた。
声をかけられた長髪をひっつめた女性は、スチール机とイスの間から立ち上がって、「内海町立」図書館までの道を説明をしようとしてくれた。
3人の女性は、国道をまっすぐ行って、金両さんのところの二股道で、どっちに行った方がわかりやすいのかと、相談をはじめた。
ややこしそうなので、窓越しで話すのをやめて、事務室の中に入っていった。
醤の里の観光案内の地図をもらい、「内海の役場」の交差点と、私たちが国道436から坂手港に向かうために曲がった交差点の間にあるらしいことを聞く。
サイクリングセンターで自転車借りたらいいんや、と場所を説明してくれたので、そのエリエス荘に泊まってるんです、と紹介し、礼を述べ、とりあえずバス停に向かう。
バス停には、4・50代くらいの青地の長袖シャツに青いジャージ、頭にキャップを被った男性がタバコをすいながら、バスを待っていた。


小豆島バス
バスが来る気配がなかったので、バス停の道路向かい側の自販機まで行ってお茶を買っていると、道路の先にバスの姿が見えた。
さっきまで、全然車が通らなかったのに、急に車が続いて、バスに飛び乗るように入りこむことになった。

で、整理券を取り忘れた。
乗客はさっきのおじさんと私だけ。

「しまった、整理券とるの忘れた。」

運転手さんの後ろに座ったので、聞こえるように大声で独り言を言った
「まあ、ええよ」とか「どうしたんや」とか「お客さん」という声がかえってくるのをしばらく待つ。
けど、期待した声はなくて、斜め後ろに座ったキャップのおっちゃんがチラっとこっちを見ただけだった。
金両近くのバス停で腰の曲がったおばあさんが二人乗車してきた。
キャップのおっちゃんはコンビニ近くで降りた。
介護センターの前で二人のおばあさんが降り、かわりに新たに4人の乗客が増えた。
バスが町を通るので、メモ取るものも多くなり、使う予定のないメモを取るのも飽きたなと思っていると、バスの走る国道がパチンコ屋を過ぎたあたりから、さわやかな海岸通りに景色が変わりはじめた。
海を眺めてのドライブとなってきた。
少しふりかえると、醤の郷あたりの海側の風景も見える。
湾内にはタンカーのような輸送船と離れた中央あたりに大きな白い船が見えた。
漁船でないのは明らかだが、仕様からすると客船でもないように見える。
タンカーのような輸送船でもない。
海上保安庁の船にしてはでかいよな。
それはそれとして、その船の浮かぶ湾を囲むように海の向こう側に伸びる半島の先は映画村があるところだろうか。
映画村隊はあんなとこまで自転車で行ってるのか、と思う。

その2へ続く

2009年6月9日火曜日

ぼちぼちと 特集:卒業式でのサプライズ

「卒業式でのサプライズについては、感謝の意味を込めて、次回以降の記事で特集することにしよう。」と前回の記事に書いて、数ヶ月も経ってしまった!

食べるので精一杯という忙しさもあるけれど、4月になると思った以上に気分が落ち込みましたわ。
ちょっと、上向いてきたのがGW明けで、少し元気になったのが、月末の研究会と、先日の実習合宿のおかげかな。
やっぱり、フィールド・ワーク系で元気もらってきたことをあらためて実感した。
(というか、それにカコつけて、休みがちにしてただけかも。)

というわけで、実習の報告連絡も前向きに復活したいこともあって、まずは前回の続きを感謝の気持ちの表明としてきちんと書いておきましょう。


卒業式でのサプライズとは、ゼミ生の人たちからのプレゼントでした。

そうです。いろんな方からのいただきもので、私は暮らしています。

いただきもの1 水嶋ヒロ セカンド写真集

ゼミのみなさん、覚えてましたか。
最初のゼミでのアンケートで好きなタレントを聞いたとき、水嶋ヒロの名前を出したのは、X君だけでした。
その名前を聞いて、「天の道を司る男」はいいよねー、と即座に反応したのは私です。
コアなファンには負けますが。





いただきもの2 トランクス

なんでまた、赤紺なん?
でも、上品なおパンツです。







いただきもの3 

携帯灰皿。
きれいなものなので、実はまだ使ってないんです。

ウチの奥さんは、絢香を守りたいヒロの写真集よりも、こっちの方を狙っています。

絶対、やらんと言ってます。



いただきもの4 ピンクのハートシェイプボックスに入った、栄養ドリンク各種。
すいません、急いでこの記事書いたので、写真がありません。
ハートシェイプボックスは、奥さんが、小物入れにするといって、どっかに隠してしまいました。
「ウコンの力」やその他のドリンクは、たしかに私がいただきました。
けど、元気になったかはわかりませんが・・・


退職とか、そんな話は授業で一回もしてなかったけど、ありがたいサプライズ、感謝です。
奥さんの方がよりいっそう感激してはりました。(なんでか)
一瞬だけ、尊敬されました。その後のイヤミの日々はおかげさまで、あいかわらずですが。

では、もしこの記事見られることがあったら、夏場に向けて気張りすぎないようにお過ごしください。

2009年3月18日水曜日

無題

卒業式では思わぬサプライズがあって、今年はいい思い出になった。
ちょうど区切りの年でもあるので、何にもなしで終わってはあまりにもそっけないので、大変ありがたかった。
みなさん、卒業おめでとうございます。

本年度でゼミが終了することなどは、ブログで少々ほのめかしてちょっとずつストレスを逃がしていく以外には、学生さんたちに最後まで黙っておこうと思っていたのだけれど、
卒業説明会や謝恩会で繰り返しアナウンスされてしまった。
卒業式は、卒業生が主人公で、彼らの門出の日というふうに考えているし、自分が目立つのはまた違うことだと考えているので、少し複雑だ。僕自身は裏方というふうに自覚しているから。
学生さんが後輩に送ってもらったり、付き合った友人とあいさつしたりでみんなが忙しいのがいいと思う。

ま、表に呼ばれたので、当然、はしゃいでましたけど。
みんな、学生時代を(大学に限らず)いろんな楽しんで過ごせたらそれが一番ですよね。

卒業式でのサプライズについては、感謝の意味を込めて、次回以降の記事で特集することにしよう。

2009年3月4日水曜日

腰をやってしまったかもしれない点について

自宅と研究室の書類・書籍整理をし、PCに向かいと、いずれにしてもここ2・3日は背中の痛い日が続いたが、先ほど、段ボールを持ち上げて整理していたらググッと感が腰に来た。
動かせない。
車の運転姿勢も悪いし、机に座る姿勢も、壁にもたれて炬燵でTV見る姿勢も悪いし、思いあたることはいっぱいある。だいたい背中と腰が丸くて、全体に左側に傾いている姿勢だが、今は、左の後ろが痛いな。
やることいっぱいあるので、がつがつ動きたいのだけれど、しばらく様子見だな、これは。

2009年2月26日木曜日

報告書の表紙イメージ・・・

まだ、レポート全部集まっていないけれど、
だから、こなさなきゃいけない仕事の順番が間違っていると思うけれども、
とりあえず、次の報告書の表紙イメージを作ってみました。

これでいきたいです。
でも、色が暗い・・・
気持ちが反映しているんだろうか。
けれど、この方が自分は落ち着きます。
























イメージ内のテキスト情報は適当に文字を並べたり書いたりしただけなので、意味はありません。

もう2月も終わりで

考え事が多くて困る!
論文・レポート・講演の検討が終わってまわりを見直すと頭が痛い。

生活環境が整わない、これから先の見通しを考えると何から手をつけるべきなのか・・・
研究室の整理・・・必然的に自宅の整理・・・時間と労力がかかりすぎる!
健康保険・年金・税金云々・・・書類を見ていても、何がなんだかよくわからない!というか見る気がおきない。


そんな上に、実作業がある!
この状況は結構つらい(せいぜい2つぐらいしか同時進行で作業ができないタイプ)。

報告書の編集・作成、
研究計画R
冊子づくりと関連補足調査
調査計画S
ああ、明日までの別の原稿校正があるのを思い出した・・・

この時期に引っ越ししながら研究のまとめをやってらっしゃった先生方を改めて尊敬する。

2009年2月24日火曜日

project S 2回目

前回を受けて、2度目の打ち合わせがあった。

打ち合わせ--では、内容がいま一つわかりにくい。

組織全体の趨勢をはかる基本的な調査を行うのだが、これが数年毎に続けられてきた。
前回参加していたメンバーは今回も参加している。
しかし、今回はプロジェクトリーダーも交代して新メンバーを加えて実施する。
僕は新メンバーの方だ。

そこで、今回グループでは何を特色としてどんなテーマを基本調査のなかに盛り込んでいくのか、あるいは参加メンバーは何を盛り込みたいのか
・・・そのすり合わせが今回続いているわけだ。
メンバーは専門性を持った研究者集団である。
とはいうものの、対象である社会集団に対して専門である人はおそらく半分くらいだろう。
残りの半分は僕も含めて調査者ではあるが、対象集団に対して個人的な関心を持っているという程度になるだろう。

自分自身が問題だ。
前回では、中途半端な発言でしかなかった。
何を考えている人間なのか、どういう立場で参加しているのかはっきりしない。
わずかに関心事として「社会的活動」としか述べていなかったように思う。
ほかにも発言したが、その場の流れのなかで関心が向いたものを述べただけで、自分自身の軸が定まっていない。

そこで、みんなにもういちど自分の紹介からちゃんとやっておこうと思いたった。
1回目で実はやらなければいかないことだったので、遅まきながら「本調査対象と私の出会いの体験-調査についての姿勢と関心」と題される内容のメールを2回目の会合までに配信しようとした。
だが、あらためて文章化しようとすると何もまとまらないことだけが見えてきた。
夜中に何度も書き直していると、独りよがりの変なラブレターみたいになってしまって、思い入ればっかりがめだつようにも思えた。
送れないまままに当日を迎えた。

しかし、何にも言わないで打ち合わせが進んでいくよりも、後退することになるかもしれないが、何か刺激を出して進めた方が良いと思い、当日に出来そこないで虫食い状態の文章をみなに回した。

幸い、グループの中でその主旨をすくってもらい、2回目はもう一度関心事の洗い出しという流れになった。

新たに解説した人もいれば、以前と変わらないと述べる人もいる。

僕自身は、1回目も含めて今回の話を聞いても核が見えてこないと感じていた。
(だからあんな文章を書いたのだけれども)

個々人に関心事はあるのだが、テーマが感じられない(ひとつを除いて)。

テーマというのは、課題であり、問題意識のことだ。
実態がどうなっているか/なっていないか を知りたい、は誰でも強くであれ弱くであれ好奇心を持っている。
それを知ることになるのだが、その先に何を述べようとするのかの課題が出てきていないように思う。
提案や提言しようという意味ではない。
問題の投げかけを行うにせよ、われわれが何のためにそれを知りたいのか、それを知ってどうなるのかという自分自身の課題としての調査のイメージが感じられない。
調査を通じて、自分自身と調査の関係者に(せめて)ある疑問を投げかけて、次の段階へと向かおうとするテーマ性が語られていないのだ。

研究者であることと調査業者であることの違いでもある。

2009年2月23日月曜日

研修会の講演

自分では、普通にこなしているつもりでも、知らずにプレッシャーがかかっている仕事というものがある。

今回が、それだと気づいたのは、研修会当日のことだ。

個人的な事情が重なって、頭がまとまらなかった・・・それも含めて事前の配慮と準備の不足か。

話の資料が個人情報のため扱いにくい・・・これはいつものプレッシャーだ。

具体的に反省するのは、誰を相手にするのかその場に入るまでイメージが作れなかった点が大きい。聞いて欲しいのは、センセイなのかガクセイなのか(実はガクセイをメインに考えたら現場にはいなかった)、日頃あまり考えないだろう議論を想起して欲しいのか、現状を訴えたいのか、あるいは訴えるだけで終われないのか。準備段階で決めていたはずが、現場では方針がぶれまくった。

そんなことになる大きな要因は、取扱資料の勝手をいつもと変えてしまったこと。質的でなく量的な話を持ち出して、議論を作ろうとしたことだと思う。
量的な情報から、特殊な案件としてでなく、それらの案件の背景であり温床である日常的なコミュニケーションの課題へ話題を集中させるはずが、量的な情報から枝分かれするさまざまな派生情報に話が拡散していった。この点は伝えなければという思いが勝ちすぎたし、「この点」が多すぎる。

一方で、単純な情報提示で終わってはいけないという強迫観念が現場でもちあがった。聞き手や施設という会場の雰囲気にとまどったことも影響する。

資料紹介ばかりだと、自分自身の頭の中でだからなんだと突っ込みたくなる。話を聞く人はむしろ資料の詳細説明がわかりやすいはずだ。
時間の終盤に論を展開しようにも資料と事象の豊かさの紹介で突っ込みすぎ、無理に話を論にまとめようとした。これが全体の流れの間違い。
学説を述べたいのか啓発を語りに行っているのか、相手が見えていなかったこともあって、結局、現場で混乱しどっちつかずの状態に陥った。

事前に声に出す練習まで考えたのだが、時間切れという感じだ。
いちから出直しの気持ち・・・そんなさわやかな気持ちよりも、もっと複雑なリベンジの感情がくすぶった。

2009年2月21日土曜日

完成したけど告知していなかった報告書

連絡用だとか告知用のブログだと言っているわりに、アップしわすれてました。

07版報告書『想いをカタチに-町と生きるⅢ』出来ました。


「想いをカタチ」にっていうタイトルは、執筆者のレポートタイトルがラブリーだったので、そのまま報告書タイトルにしてしまいました。

けど、出来上がってから推敲が足らないと反省と後悔しきりです。
「想いをカタチに」っていう表現は、近年、僕が避け続けている見出しだからです。
なんとなくニュアンスは伝えているんだけど、中身がなんなのかよくわからない。
もう少し、サブタイトルつけるなりなんなり対処を練っておくべきでした。

しかも、逆の視点では、「想い」なのか「思い」なのか、「おもい」なのか「オモイ」なのか、凝るんであれば徹底的に何をシンボライズする言葉なのか考え抜くべきであったと思います。

いや、しかし、ともかくできたできた

2009年2月20日金曜日

調査project S 始動

ブログに書き込むことではないと思いますが、備忘録として記します。
(関係者の方で、もしもお気づきの点がありましたら、ご指摘ください)

先だって、09年度活動開始予定の委託調査事業Sの顔合わせがあった。
顔合わせといっても、09年度以降2年の実施期間の内容を見ると、急がなくてはならないので、できるだけ意見交換を行うことになった。

久し振りに数値を取り扱う調査に参加した。
委託先との交渉には直接参加していないのだが、
ある程度の内容のガイドラインはある・・・ようだ。
数年ごとに行われたこれまでの調査内容を資料としていただいた。

で、顔合わせではこれまでの資料を読んで思うこと、私の関心事を話すということになった。
思うことはあるのだけれど、今回調査でどこまで展開していいのか予測がつかなかったし、いろんな事情の様子を見ようとしてしまった。
この話し合いの後に控えている、別件の研修会講演の内容が整理されていないことで頭がぐちゃぐちゃでもあった。僕自身の関心事は、おおざっぱに話すことによって、前回までに行われた調査とかぶっているかのようにカテゴライズしてしまった。他の人からも前回を受ける意見が出た。他の参加者の話を聞いているうちに次回打ち合わせとそれまでの作業の話になってしまった。
結局、これまでの継続調査であり、テーマ性も前回とそれほど変わらない、ただし、前回までには遠慮や対象者のやりにくさもあって調査票内容がわかりにくい、少しブラッシュアップしよう・・・ということに落ち着いた。

しかし、そうなると、僕が困った。自ら考えるテーマが反映しないものに関わることになるから。言葉の真の意味で委託だ。研究になってくれない。他にやりたいことがあれば、数値でなく質的な方で・・・という話もあったけれど、数量調査自体を意味のあるものにしなければいけない。

というわけで、クダンの研修会が終わった後、あらためてこの調査に関する自分のテーマ性や構えをメールで参加メンバーのみなさんにお知らせしようとしたのだが。

2009年2月18日水曜日

報告レポートはまだ全部届いてません。2月半ばだけど。

というわけで、もう少し、待ちの状態です。

今、報告書の「まえがき」をぼちぼち書き溜めてます。
ほとんどレポート済みの人ばかりで、就活にシフトしていると思うのですが、最近まで粘ってレポート添削していました。
授業参加者にとって重要な考察点を、近々の添削集からそのまま引用していくつかを紹介しましょう。

一般ゲストの人には不親切な提示ですが・・・


添削10点目
音楽の販売方法も、現在ではインターネットによる音楽配信により、ジャケットが画像としてしか存在しないといったシングルも発売されており、レコードの芸術作品としての価値は高まるのではないか。

レコードのジャケットは魅力的だ。インターネットでも、曲は聞ける。しかし、「ジャケ買い」という言葉に代表されるような音楽作品との出会いや、手に取った感触、店の雰囲気、店員との会話など、曲に対する付加価値が失われ、それを埋めるものが見当たらない。インターネット配信の曲は、パソコンに保存しているだけなので、容量がいっぱいになれば、削除してしまう人もいるだろう。音楽の作品自体の存在価値が低下しているのではないか…とすら感じる。


どこまでがインタビューで確認されている内容ですか?
筆者の思いだけで書いてますか?
「レコードの魅力」という見出しの内容は、本文ではインタビュー内容をもとに記述されるべきです。もしくは、最悪でも文献引用が必要。そして文献引用した場合、やはりインタビュー内容との対照などの検討が必要です。

添削12点目
とりあえず一通り何かはわからないが、宗教的でおしゃれな雰囲気に溢れた店内・・・


・「宗教的」について、具体的な描写が必要。
・また、その後の「微妙な空気が流れていて」・「(店長を)怖い人かな~(と思う)」という表現も文章の流れからどう読みとっていいのかわからない。
「微妙な空気」ってどんなことが起こったのですか?
また、なにが「怖い」と筆者が感じているのかが表現されていないから読解しがたい。
レポート全体として、「私(=筆者)」という一人称が表現されているけれども、筆者が何をもとにどのような基準で感じて表現しているのかは、明確にされていない。しかし、筆者の理解や解釈は述べ続ける・・・ここが問題。

添削15点目
(店内には)正直、よくわからないもの、マニアックなもの、中には“変”と思うような物もたくさんあった。


整理して。
よくわからないもの・マニアックなもの・変なものって何がどう違うことを表現したいんですか?
<私にはその価値が理解できないものがある>っていうことだけですか?
文章の中では、変を“ ”でくくっているので、何か特殊な意味づけをしようとしているように思うのですが・・・
・視覚・聴覚情報による描写が少ない、一方で筆者の内面的思考や思いが多いというレポートなので、こうした指摘が多くなります。

添削21点目
一般的にサラリーマンは自分の考えを相手に理解させ、納得させていかなければいけないことが多いのではないだろうか。そういった意味で「サラリーマンが出来ないタイプ」それは確かにそうだ、と感じた。


自分で前提的な議論を作って、Mさんの語りを当てはめている、という書き方ではないでしょうか?
<一般的に・・・>は、Mさんの語りにはありますか?
もし、無いようでしたら、どこから<一般的に>という信憑性を得て論を引用してきていますか?

添削22点目
<wikipediaより引用>阪神大震災は1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒、淡路島北部(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として発生した。住家被害〔全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計約25万棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟〕 街は破壊され、〔死者:6,437名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名〕という多くの傷ついた人々が溢れていた。誰もが不安を抱え、やり場のない悲しみもあっただろう。しかし、一日平均2万人超、3ヶ月間で延べ117万人とも言われる人々がボランティアとして、震災の復興のために現地で、被害者支援を行っている。そこには、温かい人間の姿があった。
                         【阪神・淡路大震災 データ引用】


このウィキペディアの引用部分の前半は事実の確認情報ですが、後半は情緒的な表現になっています。後半は、レポートの内容を確認するためにしては、あいまい情報にあいまい情報を重ねるようになるので、引用を避けます。そう書いてあるだけで、現実的な人々の姿がありません。
あるいは、wikiでこのように紹介されているのだが、実際に店長さんたちのお話をうかがうとそのような現実が見えてきた・・・ぐらいの参照のための引用でよいと思います。
ただし、フィールドワークをすること自体の意味を意識してください。
wikiを確認するためにインタビューしたわけではありませんし、インタビュー内容を固めるために持ってくるにしても、この引用は後半にあまり内容がありません。

添削25点目
そこには、今の日本に足りないものがある。今の日本人は価値観が多様化し、グローバル化する中で、個人の自立というものを求められている。しかし、日本人の個人の自立には、個人主義というような時代の流れもあり、本来の自立からねじ曲げられ、人と人の間に壁が作られている。個人主義の流れは止めることが出来ない。しかし、阪神大震災によって、街が破壊され、人々がたくさん傷ついたことによって、人と人の間に築かれつつあった壁も崩れたのではないか。その壁が崩れることによって、多くの人とのコミュニケーションが生まれ、改めて人との結びつきの温かさを感じられたのだろう。
 Mさんも「まあそら儲けたいっていうのは商売やからあるんやけど、まず喜んでもらいたいお客さんにね。それからはそういうのが変わったなあ。とりあえずまずお客さんに喜んでもろたら、それは商売に儲けようというより喜んで欲しい。喜んでもらえたら結局結果が出るっちゅうかね。まず喜んでもらいたい。」と語っているように、人のためにという思いが強く感じ取れる。


Mさんの語りをもって、筆者が考えるところを書くようにしてください。
最初に、日本の現状、個人主義、人と人の壁が崩れた、多くのコミュニケーションが生まれたという筆者の思弁が先に来ています。しかも思弁が弱い。
その上で、思弁を確かめるようにMさんの語りを提示するという順番になっています。

添削26点目
阪神大震災の被害はあまりにも大きく、苦い思い出には変わりはない。しかし、その苦しみを共に乗り越えた人々は、誰もが誰かに感謝し、感謝され、自分という人間の在り方を再確認させられた。だから、人を大切に思うのだろう。その思いは、震災から13年が経過し、街が復興し、震災以前より便利になった今でも人々の心のどこかに“思いやり”“優しさ”として残っている。そして、それはこれからも震災を生きぬいた人々を一生支えるだろう。


Mさんの語りや人生が<生き抜いた人々>に一般化されている。
これは議論が必要だろうと思う。

2009年1月18日日曜日

宝塚行ってきました(その3)

前回の記事の説明から・・・

写真は、清荒神駅前の商店街。
1・2軒隣に行くと、清荒神市場というアーケードになった路地のような入り口もある。
路地の中はシャッターの閉まった店ばかりだったけど・・・

前回の記事で、最後の文献紹介で、”小林一三の先見の明”やら”音楽文化””生活文化”としてタカラヅカなどという言葉を使っていたけれども、実際に、渉猟した文献ではタカラヅカというとなんといっても小林氏の功績だった。そしてアイデアの見事さ。
少し、現代的な文献では、これまでのタカラヅカの歴史をふりかえり、大衆文化・音楽文化・生活文化としての少女歌劇の特色や、それが文化に与えた影響などを考察していた。

新書版や随想風なもので、タカラヅカの文化論を紹介するものもいくつかあったが、
以下のものは、文化としての議論を考えた場合、読みがいのありそうな文献。

津金澤聰廣・近藤久美(編)『近代日本の音楽文化とタカラヅカ』世界思想社
袴田麻祐子「少女による歌劇から少女のための歌劇へ」や
全国に乱立した、金沢にも出来たという栗ケ崎浜遊園の少女歌劇の紹介・・・

オペラではない、大衆の音楽文化としての少女歌劇の様子が小林一三の意図もあわせて紹介されていて、面白そうだった(執筆者の方は社会学を背景としている)。

渡辺裕1999『宝塚歌劇の変容と日本近代』新書館

では、小林一三の戦略から詳細に紹介しながら、東京-大阪の文化的勢力を背景とした宝塚の少女歌劇の位置づけ、さらに西洋-日本の文化的背景から海外へ渡るタカラヅカの文化的意義などの考察を行っていて、文化論として楽しそう。(続くかも)

宝塚に行ってきました(その2)


南口の市街地開発の真紅の熱い報告書はあった。
同じように宝塚駅周辺の開発事業の報告書が欲しいのだが、的外れな探し方をしたのかそれらしきものを見出せない。
手塚治の記念館についての随想録のようなものはあるが・・・

というわけで、次の大判の資料集をとりあえず見ておこう。

宝塚市、2003 『第4次宝塚市総合計画』

○古墳の多いことから宝の塚と古代から称されたというこの地域では、17世紀には、現在の山本・中筋地域の植木が知られるようになる。現在でも、伝統的な植木産業が伝わる農住地域が残されている。
○中世・近世と交通の要所として栄え、近代では明治20年、温泉が知られるようになる。○大正3年には少女歌劇がはじまる。
○観光の名所としては、その他に中山寺・清荒神清澄寺など、伝統的な寺院がある。
○一方、大正初年には雲雀丘・花屋敷を中心に、昭和初年からは仁川・武庫川を中心に宅地開発が広まる。
○観光人口は平成5年の1200万人をピークに、ここ数年、1000万人と落ち込み気味である。また、観光客の95%は日帰りという調査結果がある。


上記の資料集は総合的に問題を網羅しているのみで詳細は踏み込んでいない。
まちづくりについて、何かないかと思って探していたら、次の文献が目に付いた。


瀬川直子 2006 「歌劇の国のタカラヅカ-都市再生の鍵はその宝の塚にあるのか その1-」 市史研究紀要 たからづか 第22号 宝塚市教育委員会

執筆者はジャーナリストの方らしい。
期待していた現代的な都市環境の変化と阪急駅近辺の開発とタカラヅカとの関連についての言及はあまりない。
やはり小林一三の意図について、つまり、歌劇ができたころの話にページ数が割かれており、郊外に目をつけられたことが紹介されている。
後半に、ようやく音楽文化という生活文化を生み出す「土壌の変化」、つまり地域の変貌について触れられている。
ちゃんと読んでないので、コピーしてきた。(続く)


 

宝塚行ってきました(その1)


報告、遅くなりました。
先日、宝塚チームとともに訪問しました。
中央図書館は、阪急 清荒神駅の目の前にありました。
結局、宝塚駅から線路沿いを目指していたら、すぐに到着しました。

一般開架の図書よりさらに奥まった調査相談室に郷土資料のコーナーがありました。
タカラヅカコーナーだけは、聖光(?)文庫という展示室も兼ねた禁帯出の藝術書とともにありました。
なぜか、タカラヅカとカタカナで書くと、歌劇のことなんだな。
書棚を軽くブラウジングして、目についてちょっと読んだのは次の文献です。


宝塚市、1975 『再開発/宝塚市の記録 宝塚市南口駅市街地再開発事業』

○阪急今津線、宝塚南口駅に隣接している白亜の殿堂サンビオラを中心とした市街地再開発事業の報告書。A5版程度の小ぶりな冊子だが、意外なほどページ数も多く、また紙面に細かな文字がびっしり詰め込まれている。なんといってもその報告内容の充実ぶりに、当時の事業の熱の高さがうかがえる。
○この事業は、温泉・旅行・ファミリーランドなどを含めた広域レクリエーションゾーンである宝塚の中心であり窓口である南口駅市街地の活性化を求めて取り組まれた。1970年代の事業である。事業計画は駅周辺の市場・商店を整理し、店舗140軒・住宅102世帯を3棟のビル(サンビオラ)に納めるものだ。事業により、駅前はロータリー化され近代的な装いが整えられた。
○この報告書の熱の入りようは、以下の記事群からもうかがえる。
・大上清、再開発事業課長による昭和46年7月1日~昭和48年6月までの詳細の作業日記
・登記書の登録の条件設定や書式の詳しい解説
・昭和42年9月30日からの地区住民答申案説明会(於:宝塚第一小学校)からはじまるびっしりと連ねられた活動記録
・事業の過労のために亡くなられた課長(戸田氏)の追悼回想録
・事業全体の回顧録のための座談会を紙上公開

充実した報告書です。(次の記事へ続く)

2009年1月10日土曜日

提出 完了

昨日が締め切りだったが、ほぼ提出が終わったと連絡が入った。

「ほぼ」というのは、一人だけ連絡が来ていないから。

来ないのはあるうる人だけれども、提出を少し心配していた人でもあるので・・・

大丈夫とは思うけど。

2009年1月7日水曜日

提出 初日

4人、提出完了のメールが届く。
一方、質問は2件。
僕自身も副読本と添付書類の手続き上の、そして意味上の違いについて考えさせられる。

ところで、追い込み期だが、一方で年始の授業は通常通り進行している。
年始の授業はそのまま最終課題中、もしくは課題前の授業だから、年末の授業並かそれ以上にバタバタする。
授業の中身の全てにケリをつけなければならない。
全てになるべく注力しようとすると、全てがなんだか中途半端になってしまう。今日の仕事もなんとなくスッキリできなかった。

2009年1月6日火曜日

ブログ操作報告 記事編集

ホリイレポートへのコメント記事を削除する。
本人に対して記事内容の確認を終えた。

クラスメンバーに卒論の共通の課題を提示することが目的だったが、
本人への確認こそがこの記事の命。
まして、一部抜粋でそのまま提示していたので、一定の役割を終えたと判断し、削除とする。

卒論提出直前 最終ゼミ

個別の相談をして、口述試問について説明する。

個別相談で確認した事項について記憶に残ったことを記しておく。
1)文字数を大きくオーバーする場合の対処について
a.巻末資料として整理できるものがあれば、整理し、添付する。
図表などが大量の場合の対処でもある。
b.概略、舞台紹介や、本論に乗り切らない見解や観点を本文から、脚注にまわす。
2)サイトからの引用について、参照サイト自体が何かを引用してテキストを作成しているのであれば、参照サイトが引用・参照している元の資料にあたらなければならない。
原資料にあたるのが大事で、紹介しているサイトを参照先にしてもあまり意味がない。
資料を作った人をまずリスペクトすることが大切だ。

他にも細かいものがあったけれど、印象に残ったのは上記二つ。
そのうち、重要なのは2)だ・・・ということ自体は、もうすでに授業で言っているのだけれど、意味が伝わっていなかった。

2009年1月5日月曜日

卒論相談についての予定

本日(5日)は相談の確約がない(と思う)ので、大学には行かないつもりです。
明日(6日)授業があります。翌日から提出なので参加自由です。
ただし、卒論相談が殺到するものと思います。
このブログ記事内容を読んでいない人は、相談対応しません。
読んでくれというのは無理です。
年末に届いたものまでです。全体は読みません。
質問したいことを用意して授業中に発言してください。
時間外に質問されても答えないようにします。

さらに、いくつかのメール相談にコメントしていないものがあります。
・すでに面接や授業でコメントしているものについての質問2件に答えていません。
・会ったときに一言言えばいいだけの質問、かつ作業もわずかで終わりそうなもの1件
・2度目以降の相談について2件ほど。これは、初めての相談を優先的に行っているため。

最後の講義はさらに13日になります。

卒論相談 イケジリレポート

第2章までは猟奇事件、第3章は猟奇趣味あるいは猟奇に関する環境の変化と猟奇というキーワードを通じての社会状況の読み解きというところでしょうか。
この時期の指摘としては遅いですが、2章のあとになぜ3章なのかが大きな流れとしてはわかりません。紹介をしているだけになっているようです。
また、2章までの事件の羅列もなんの意図があって羅列されているのか(何を言いたくて羅列しているのか)、筆者の設定や目的がわかりにくいです。意図があれば、もっと強調してください。

2009年1月4日日曜日

実習レポート 宝塚から 考える

◎オカタイ指摘、わかる人にしかわからない指摘、教科書みたいな指摘の仕方をします◎
語りを使ったレポートで、気をつけなきゃいけないこと・・・というよりも、皆が気をつけなきゃいけない重要な点がある。
語りで述べられている<できごと>、語られている<意見・見解・感想>などについての、執筆者自身の理解のスタンスである。
語りで述べられている過去の出来事は、体験された出来事であり、もうすでに起こったことであるから、彼らの体験的出来事という事実として紹介できる。そのまま過去の事実として紹介できる。
しかし、体験に対して意見が語られている場合もある。あるいは、社会の出来事に対する見解を述べている場合もある。
これらは、その人個人の主観的な思いであり、解釈である。
それはそのまま現象そのものを説明しているわけではなく、あくまでも語り手を通しての見方である。

言い方を換えると、不足しているのは、語り手が話してくれたことが自分たちの探っている課題についてどういう意味をもつのかという、語りの吟味である。
単純に、データの考察、という作業があいまいである。
よくある失敗例では、まるで、なにもかもが語りのままであるかのように書いてしまう。
インタビューでは、当然のことだが、語り手を通しての現実が語られている。
その語りの意味を吟味するためにいろいろかんがなきゃいけないことがある。
語り手は、例えば全ての宝塚ファンを代表できるのか、例えば宝塚歌劇団の状況を総合的に述べる立場の人であるのかは、語りを吟味する上で、最初に考察される課題である。
そのために、少なくとも語り手のプロフィールであったり、もっと積極的にライフヒストリーを採取しているし、レポートでは必要となってくる。
こういう情報から語られたことの意味や質を理解しようする。

また、別の方角から言い換えると、「書く」ことに無頓着であるとも言える。
筆者は書いたことがらについて、どこまでそれが正当性があるのか、責任をもたなければならない。少なくとも、なんで自分自身がレポートに書いたように言えるのかは(アリモトさんが指摘しているように)読者を説得しなければならない。
そのために、執筆者が、現状を伝える折りに、現状の原因を考える折りに、その現状の様子の理解の仕方や、原因についての見方は、どこから出てきたものであるのか・・・自分自身のFNからなのか、個人の語りなのか、あるいは語り手もさらに伝聞で語っているのか、が確認されなければならない。
その上で、執筆者が書こうとすること、表現しようすることは、こうしたデータを通して現れているのだと主張していく・・・ ・・・

◎おんなじようなことを何度もクドクド書いちゃいましたので、次は、個別の話題。
サメジマ レポート

1)宝塚歌劇チームは三人それぞれのレポートだったと思うので、テーマ性のあるタイトルが必要。
2)創成期の記述について、アリモトさんの指摘の通り。
3)観光パターンは千城さんからの体験的な語りとしてもう少し意識して、千城さんの語りをどう読みこむかという鮫島さんの声が必要。
4)ファンクラブの買い占めも元内部にいた人からの情報や目線としての妥当性を含むものかどうか、元関係者としての状況に関する情報が欲しい。例えば、歌劇団員は、当時、皆、そのように理解していたのか。現在、外から眺めていてそう思うのか。今でも誰か関係者と話していてそういう話がでてきた・・・つまり、現関係者自身がそのように考えているのか。ニュアンスだけになってもいいから「買い占めに関する意見」の状況説明が必要。
5)講演内容が難しい→集客にカゲリも同様。これは、どのあたりの情報からこのように述べることができるのか?

3)4)5)は、上部のコメントと根を一にしています。


卒論 相談**回目

この時期の卒論のコメントは、何を評価するかに関わる。

進度も深度も違うレポートにコメントするのだし、本人が何を書きたいかによる。
そもそも完成は無いのでとにかく指摘し続けるが、相談に来た執筆者は合格サインが欲しい。
一方で、締め切りはわずか数日後。
数日で終わりそうもないことをコメントすることもあるが、それは作成を考えれば当たり前のことであったりもする。

今日は、京都駅近辺で2件の面接。

2009年1月1日木曜日

実習レポートコメント

以下は、とりあえずのコメント一覧
自分以外の人へのコメントは、とてもわかりにくいと思うが、目を通してください。下の方が古いコメントです。

(今回のコメントは、パン屋2件、サッカー、灘、小麦高騰、以上5件について。
(名前はカタカナ書きで出している。
(問題があったら問い合わせて。

●キダ;
1)アリモトさんの指摘にあった、文章で敬語を使うかどうかは、使用しない、という方向性で進める。
2)イシグロさんとは独立で考えていいと思うので、各事項の説明は丁寧に行う。
これもアリモトさんの指摘に同じ。
3)「原材料高騰」と」「個人経営の強み」「パン屋とは」が内容テーマとしてあるが、後者の二つは統合できる。
むしろ各店を紹介しながら、個人経営の強みや「パン屋とは」という見解を紹介したい。

●テヅカ;
1)ヴィッセル神戸のファンの現状を紹介し「6」でまとめが書かれているが、これらの取材から考えられる「課題」は何だろう。何に付いての課題かも考えて、練り上げる必要がある。
マサキ;

●灘レポート
ナカガワ;
ヨコヤマ;
聞いたことのエッセンスはほぼカバーしている。
1)アリモトさんのコメントにあるように口語表現に問題がある。今度の授業で確認する。
2)また、やはりアリモトさんの指摘通り、住民代表として考えることはできない。
住民の声の一例として紹介するべき。
一方、自分の理解はそのまま生かす方向で良い。

●ササキ・ショウジ・ムラナカ組へのコメント
1)全体のタイトル・・・少しテーマ性のあるタイトルを考える。
2)協同組合・・・パンコンテストなど紹介するにあたって、ナレーションをもう一文ほど加え、紹介する。
3)第1章の「4 感想」は全体の流れから考えて、不要ではないかと思う。
4)3つのレポートの全体の流れからすると、「原材料」ネタは2番めで、やはり「後継者」は各店共通するけど、個別の問題なので、ラストにまわす。
5)レポートの全てにおいて、それぞれのトピックス紹介し、全体の流れを説明するナレーションを要する・・・なぜ、この情報を紹介するのかを、簡単な文章を考える。
6)レポートの内容では、課題として、「原材料の高騰」「後継者」が書いてある。
それと、各店のそれぞれの状況のなかでの活動があるのだが、上記の2点に関する情報以外はあまり紹介されていない。
同じことだが、本文中にパン屋の事例として各店が登場するが、各店についての基本情報の紹介がない。
どんな状況の中で経営しているのかわからなければ、「こだわりの意味」もつかみづらい。
たとえばローカルな地域の状況を、たとえばIベーカリーが置かれている状況を詳細説明する必要がある。



●ショウジ(完成版からコメント)
1)文章の推敲について
例えば、データを紹介するとき
改定例
引用:
小麦粉の値段は2006年(平成18年)から2008年(平成20年)10月までの調べたものを載せてみる。平成18年には47820円のものが、平成19年4月に1,3%上がり、10月には10%、平成20年4月には30%、10月には10%上がって平成20年には76032円になった。

農林水産省によれば、平成18年に47820円の小麦粉の値段は、平成19年4月に1,3%上昇している。平成19年10月にはさらに10%、平成20年4月にさらに30%と上昇し続け、平成20年10月には76032円になっている。
(農林水産省HP http://****** 12月18日)

など。

○文章中にデータの参照元をそのまま紹介するようにしてください。聞き取りデータが入ってくるので、このへんをあいまいにすると、全部わかりにくくなります。
アリモトさんの指摘にあった、「どこからどこまでがパンニュースの記事なのか」も、データの参照元を明示しないで状況の理解を書いてしまうという同じ問題だと思います。
データの参照元を紹介し、データを紹介し、読み取れる現状を紹介し、それは何故なのかと順番に落ち着いて書き直す必要があります。
パンニュースの記事も提示したら、提示した内容についてなにかコメントを。
2)「2、兵庫県パン協同組合から見るパン屋と現状」では、
Amさんのコメントは「兵庫でもニュースと同じことが起こっている」ということを確かめる言説なのかは、わからない点がある。何がわかって、何がわかっていないことかを意識することが重要。語りの扱いでこれは最重要。
具 体的に言うと、一人当りの購買個数が減っている。これは現実の状況として妥当するんじゃないかと思われるが、協同組合関係者は、パン屋さんからの報告とし てこの事実を語っているのか、果たして何かアンケート情報などあって述べているのか、単なる実感として述べているのか・・・
これらのことを執筆者は意識する必要がある。語られたことはどういうことなのか、吟味する必要がある。
統計情報とは質が違う、語られたことを元情報としている意味を意識しておかなければならない。
また、消費者が自己防衛しているというくだりは、さらに確かめなければわからない情報である。
この点は、実証的に言えば、非常に曖昧で不確かな情報である。
それを執筆者が、さもそのようであると記述するのは、”語ってもらったこと”と”書いていること”の間にまだまだ考えるべき問題がある。

ただし、分かっていることがある。
協同組合の人は、現在の状況をそのようにとらえて理解してそのように語っている、ということだ。
「2、兵庫県パン協同組合から見るパン屋と現状」の「見る」は、こうした協同組合の人の理解を通して、現状を紹介する、ということだから、協同組合関係者からどういう解釈が入っているのかを指摘する必要がある。
語られた内容は事実であるかどうかはわからない。そのように語った、という点が大切。
(以下、解説は特殊講義に続く)


ところで、この語りをわざわざ引用する理由は、上記のような微妙な点があるからではないですか?

 2)「3、」それぞれのパン屋に聞いてきた話は、後に、パン屋を二つに分類するのだから、3の時点でそれぞれの状況に応じて書きわけて。
 

 3)引用
 
「****は確かに地元の方しか来られない店かもしれないが、こだわりがある店なのは変わらない。全ての店のパンを食べてみたがやはり、どの店もこだわっていておいしかった。」
 ↑
この章でまとめの言葉として書くならば、「こだわり」がわかるように、それまでの文章において、FNやインタビューを使ってこだわりの様子を紹介してください。まとめになって、これまで紹介していない出来事を背景とした解釈を急に出してくるのは禁止。

 4)引用
 
「今回インタビューした皆さん、パン屋は大変な仕事だと言っていた。しかしパン屋をやって後悔している人はいなく自分の店のパンの話をする時は生き生きとしていた。」
 ↑
 ここも、それが読者に伝わるような情報提供をして述べてください。
 ○情報の提示があって、事実を確認し、それが語られたことの意味、事実内容の意味を解釈するというスタイルに統一してください。

メール問い合わせ集中

別件のコーギ授業でも、2件ほど参加者全員に課題メールを送る。
結局、もう1件は保留のまま。

年末から年越しにかけて、新年の挨拶がわりのレポート問い合わせメールが8件ほど届く。

元日の0時のメール、第一号は卒論へのコメントだった。

で、携帯を見るのが嫌になってきたので、愈々、再びブログ利用をはじめる。

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