2009年2月26日木曜日

報告書の表紙イメージ・・・

まだ、レポート全部集まっていないけれど、
だから、こなさなきゃいけない仕事の順番が間違っていると思うけれども、
とりあえず、次の報告書の表紙イメージを作ってみました。

これでいきたいです。
でも、色が暗い・・・
気持ちが反映しているんだろうか。
けれど、この方が自分は落ち着きます。
























イメージ内のテキスト情報は適当に文字を並べたり書いたりしただけなので、意味はありません。

もう2月も終わりで

考え事が多くて困る!
論文・レポート・講演の検討が終わってまわりを見直すと頭が痛い。

生活環境が整わない、これから先の見通しを考えると何から手をつけるべきなのか・・・
研究室の整理・・・必然的に自宅の整理・・・時間と労力がかかりすぎる!
健康保険・年金・税金云々・・・書類を見ていても、何がなんだかよくわからない!というか見る気がおきない。


そんな上に、実作業がある!
この状況は結構つらい(せいぜい2つぐらいしか同時進行で作業ができないタイプ)。

報告書の編集・作成、
研究計画R
冊子づくりと関連補足調査
調査計画S
ああ、明日までの別の原稿校正があるのを思い出した・・・

この時期に引っ越ししながら研究のまとめをやってらっしゃった先生方を改めて尊敬する。

2009年2月24日火曜日

project S 2回目

前回を受けて、2度目の打ち合わせがあった。

打ち合わせ--では、内容がいま一つわかりにくい。

組織全体の趨勢をはかる基本的な調査を行うのだが、これが数年毎に続けられてきた。
前回参加していたメンバーは今回も参加している。
しかし、今回はプロジェクトリーダーも交代して新メンバーを加えて実施する。
僕は新メンバーの方だ。

そこで、今回グループでは何を特色としてどんなテーマを基本調査のなかに盛り込んでいくのか、あるいは参加メンバーは何を盛り込みたいのか
・・・そのすり合わせが今回続いているわけだ。
メンバーは専門性を持った研究者集団である。
とはいうものの、対象である社会集団に対して専門である人はおそらく半分くらいだろう。
残りの半分は僕も含めて調査者ではあるが、対象集団に対して個人的な関心を持っているという程度になるだろう。

自分自身が問題だ。
前回では、中途半端な発言でしかなかった。
何を考えている人間なのか、どういう立場で参加しているのかはっきりしない。
わずかに関心事として「社会的活動」としか述べていなかったように思う。
ほかにも発言したが、その場の流れのなかで関心が向いたものを述べただけで、自分自身の軸が定まっていない。

そこで、みんなにもういちど自分の紹介からちゃんとやっておこうと思いたった。
1回目で実はやらなければいかないことだったので、遅まきながら「本調査対象と私の出会いの体験-調査についての姿勢と関心」と題される内容のメールを2回目の会合までに配信しようとした。
だが、あらためて文章化しようとすると何もまとまらないことだけが見えてきた。
夜中に何度も書き直していると、独りよがりの変なラブレターみたいになってしまって、思い入ればっかりがめだつようにも思えた。
送れないまままに当日を迎えた。

しかし、何にも言わないで打ち合わせが進んでいくよりも、後退することになるかもしれないが、何か刺激を出して進めた方が良いと思い、当日に出来そこないで虫食い状態の文章をみなに回した。

幸い、グループの中でその主旨をすくってもらい、2回目はもう一度関心事の洗い出しという流れになった。

新たに解説した人もいれば、以前と変わらないと述べる人もいる。

僕自身は、1回目も含めて今回の話を聞いても核が見えてこないと感じていた。
(だからあんな文章を書いたのだけれども)

個々人に関心事はあるのだが、テーマが感じられない(ひとつを除いて)。

テーマというのは、課題であり、問題意識のことだ。
実態がどうなっているか/なっていないか を知りたい、は誰でも強くであれ弱くであれ好奇心を持っている。
それを知ることになるのだが、その先に何を述べようとするのかの課題が出てきていないように思う。
提案や提言しようという意味ではない。
問題の投げかけを行うにせよ、われわれが何のためにそれを知りたいのか、それを知ってどうなるのかという自分自身の課題としての調査のイメージが感じられない。
調査を通じて、自分自身と調査の関係者に(せめて)ある疑問を投げかけて、次の段階へと向かおうとするテーマ性が語られていないのだ。

研究者であることと調査業者であることの違いでもある。

2009年2月23日月曜日

研修会の講演

自分では、普通にこなしているつもりでも、知らずにプレッシャーがかかっている仕事というものがある。

今回が、それだと気づいたのは、研修会当日のことだ。

個人的な事情が重なって、頭がまとまらなかった・・・それも含めて事前の配慮と準備の不足か。

話の資料が個人情報のため扱いにくい・・・これはいつものプレッシャーだ。

具体的に反省するのは、誰を相手にするのかその場に入るまでイメージが作れなかった点が大きい。聞いて欲しいのは、センセイなのかガクセイなのか(実はガクセイをメインに考えたら現場にはいなかった)、日頃あまり考えないだろう議論を想起して欲しいのか、現状を訴えたいのか、あるいは訴えるだけで終われないのか。準備段階で決めていたはずが、現場では方針がぶれまくった。

そんなことになる大きな要因は、取扱資料の勝手をいつもと変えてしまったこと。質的でなく量的な話を持ち出して、議論を作ろうとしたことだと思う。
量的な情報から、特殊な案件としてでなく、それらの案件の背景であり温床である日常的なコミュニケーションの課題へ話題を集中させるはずが、量的な情報から枝分かれするさまざまな派生情報に話が拡散していった。この点は伝えなければという思いが勝ちすぎたし、「この点」が多すぎる。

一方で、単純な情報提示で終わってはいけないという強迫観念が現場でもちあがった。聞き手や施設という会場の雰囲気にとまどったことも影響する。

資料紹介ばかりだと、自分自身の頭の中でだからなんだと突っ込みたくなる。話を聞く人はむしろ資料の詳細説明がわかりやすいはずだ。
時間の終盤に論を展開しようにも資料と事象の豊かさの紹介で突っ込みすぎ、無理に話を論にまとめようとした。これが全体の流れの間違い。
学説を述べたいのか啓発を語りに行っているのか、相手が見えていなかったこともあって、結局、現場で混乱しどっちつかずの状態に陥った。

事前に声に出す練習まで考えたのだが、時間切れという感じだ。
いちから出直しの気持ち・・・そんなさわやかな気持ちよりも、もっと複雑なリベンジの感情がくすぶった。