2014年7月1日火曜日

(実習)高松の記録(2)

■女木島は「鬼が島」である。

女木島の洞窟は、1914(大正3)年、高松市鬼無町の郷土史家橋本仙太郎氏により発見された。
洞窟は総全長で400メートル、面積4000平方メートルに及ぶ。
この洞窟には、人の手により開発された生活の跡があり、昭和6年に鬼が島として公開された。
橋本氏はこの洞窟に歴史上の謎を見ていた。
桃太郎説話に登場する鬼が島の舞台は、この女木島の洞窟ではないだろうか。

その他、Oさんの説明は、洞窟の亀の甲天井の話・ちゅうじょう虫の話・洞穴の様子・中学との連携教育活動オニノコプロジェクトと多岐にわたったのだが、それらは学生さんのレポートにまかせることとして、この記録では鬼が島に関する部分を拾い上げてみる。



■鬼とは瀬戸内海の「海賊」である。

Oさんの説明は続く。
桃太郎の説話には作者がいる。
菅原道真の手によるものである。
道真は九州大宰府に送られる6年前に、讃岐の国司として派遣されていた。
讃岐には、第7代孝霊天皇の第8子稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)による海賊退治の逸話が残されている。
皇子は、天皇の命により岡山に派遣され、その際、高松の姉を訪れている。
孝霊天皇第2子であり皇子の姉である倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトビモモソヒメノミコト)は高松に嫁いでいた。
この媛自体には、卑弥呼その人で倭の国の王であった---邪馬台国=吉備説がある。
倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトビモモソヒメノミコト)は皇子に海賊退治を依頼する。
近頃では高松の水域に海賊が横行し、島民の生活を苦しめている。
これを退治し、島民の高松の生活に安心をもたらしてくれまいか。

瀬戸内海は海賊の横行が有名である。
Oさんの解説によれば、源平合戦の折の水軍の残党が海賊として島に住み着いたといわれている。
愛媛の今治の村上水軍などでも瀬戸内海の海賊は有名である

ともかく、こうして皇子は海賊退治のために、根城である女木島の洞窟を目指す。
海賊征討のために皇子は兵を募る。
岡山県沖の犬島よりの者
陶(すえ)の猿王の者
高島市鬼無の雉ケ谷の者が皇子に同行する
皇子たちは見事に海賊退治に成功し、海賊の一部は男木島に逃亡をはかる。


■伝説と解釈と

…洞窟めぐりが終わった後、帰路につく前に御礼方々Oさんに確認も含めて世間話をはじめてみた。
ちょうどそのとき、船着き場行きのバスが到着し、我々一行が慌ただしくなってきた。
史実に関する文献の示唆だけでも受けようと思って、世間話を始める。
ガイドの仕事は島の方がやっているんですか?Oさんは何年くらいのお勤めですか?
Oさんは観光協会の所属で、ガイドを務めて5年になるという。
続けて今日聞いた桃太郎の話について何かまとめられた資料がないか、どこかで確認できないでしょうかと話し始めると、妙にはっきりと「歴史の解釈はさまざまですから」とお答えが返ってきた。
何か話の先回りをされたような語り方だった
こちらが教えてほしいことの意図がうまく伝わっていない気がしたのだが、バスが出て行ってしまった。

うーん。洞窟を発見し、桃太郎伝説と結びつけたという郷土史家の橋本仙太郎さんの文献はまだ読んでいないし…
それには詳細書いてあるかなあ。
読まないといけないなあと思うのだけど…時間ないなあ

稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)による海賊退治の逸話が残されているという話は、どこで確認したらいいのだろう?
瀬戸内海の海賊は有名だが、解説に出てきたのは源平合戦の時代の事例であったので、稚武彦命の古代時代とあまりにかけ離れていて、話を理解するのに混乱しかけた。
そもそも桃太郎説話の作者が菅原道真というのも、どこで確認したらいいのだろう?
犬・猿・雉とはそれぞれ地名だというのは、どこかで確認できるのかな?


■岡山の桃太郎

桃太郎伝説が地元の説話として残っている地域は、全国各地に見られるという。
一般には、そのなかでも黍=吉備団子の岡山がもっとも有名。
岡山の場合、吉備津神社社伝の説話が物語の原型であるとされている。
大和朝廷の命を受けた吉備津彦が岡山地域を平定していく。
そのできごとが、桃太郎説話として残されたのではないかというのだ。

各地に残る桃太郎伝説そのものが、大和朝廷の地方平定のプロセスの説話化だという解釈は聞いたことがある。
古代ではない、もっと新しい物語だという説もあるらしい。

ともかくも、高松の場合は岡山の吉備津彦ではなく、同じく孝霊天皇の息子である稚武彦の征服譚となっている。
そして説話における鬼は海賊のことであり、犬と猿と雉の家来は、稚武彦の家来の出自を表すのである。


■女木島の神社とお墓(省略)

■伝説と現代と

ところで、「鬼が島」をテーマとした島の観光地化は思っていたよりも希薄だなぁという印象であった。
観察が不十分なためか、鬼が島の「洞窟」と「おにの館は」観光化をテーマにそれほど連動していないように感じた。
経済規模も小さいような。
確かに桃太郎観光はそんなに流行りそうにないように思うけれども、今回は、鬼グッズを買って帰ろうと土産を見込んでいたのだが…

…自分の土産の予定はともかくとして、鬼の洞窟は高さのスケールこそあまり感じられなかったけれども、人がいたと想像すると本格的で見ごたえのある洞窟だった。
その一方で、まだ新しい「おにの館」という施設は単に島の入り口にすぎないように思えた。
洞窟ではお土産に吉備団子が置いてあったほかに、特に「桃太郎」の雰囲気はあまり感じられなかった。
おにの館でもそう。
島はその他にもさまざまな特徴を打ち出そうとしていた。
「ちゅうじゅう虫」と、「世界最小のメロン」と、天然記念物の「柱状節理」と、「日蓮上人像」とが点のように情報が散在していた。
「鬼」について考えてみると、「おにの館」はあるけれども、洞窟まわりの観光用の鬼のフィギュアと洞窟内の中学生たちが作った鬼の焼き物以外には特に「鬼」らしいものは感じなかった。
「海賊」についてイメージされる雰囲気はほとんどない。

目に映ったのは、鬼が島・日蓮像・モアイ像・独特の生態系・アート、恋人岬とキャンプ場、電動自転車と真新しい「おにの館」。

山を挟んだ二つの小さな集落でできた島であること、
ほんの小さな畑地しか見当たらなかったこと、
海をわたる神輿の写真・若者が神社で神輿をかつぐ写真が最近の撮影に見えること
その祭りは2年に一度のこと・・・島の生活で印象に残ったのはそういうことだった。

桃太郎の伝説はあるけれども、島をあげての観光資源っていうことでもないのかなぁ
一方、いろんな材料をてんこ盛りにしているように見える点が印象に残ったのであった。

2014年6月30日月曜日

(実習)高松の記録(1)

■高松には「鬼が島」があった

女木(めぎ)島という島がある、と学生さんが教えてくれた。
高松市からフェリーで約20分という市街地との距離感。
地元では、鬼が島として知られている。

鬼が島?桃太郎?桃太郎伝説があるらしい。
で、古い洞窟もあるとか。
行ってみたい。


■女木島の由来

瀬戸内海では、時代は全然違うけれども国生み神話の中心オノゴロ島もある。
邪馬台国の吉備説とかもあるようで、瀬戸内近辺は伝説と神話の海である。

そういえば、女木島は「オンナギシマ」と読めば「鬼が島」とちょっと音が似ている。
…だが、実際は「めぎ」島で、「めぎ」という名前には由来が残っていた。

その昔、源平合戦で那須与一が射抜いた扇の残骸が島に流れ着いた。
讃岐地方では壊れたということを「めげた」と表現する。
壊れた扇が流れ着いたことから「めぎ」と呼ばれるようになったという説である。
…謂われは鬼が島と関係ないのか…

さらに、女木島からフェリーで20分くらい離れたところに、男木(おぎ)島というのがある。
桃太郎伝説の一説では、鬼が島(女木島)を追われた鬼たちが、いったん避難した島とされている。


■昼食情報

…訪問当日、時間がなくて女木島しか行けないのは残念だった。
昼ころについて、もう帰りの船の時間を気にしなければならないような状況である。

もうひとつ懸案事項があった。
島は、インターネットや地図で見て予想してた以上に簡素な島だった。
どうやら食事場所は、船着き場すぐ横にできた真新しい「鬼が島おにの館」にしかない模様。
学生さんによると、地図上にもうひとつの食堂が書いてあるが、行ってみたらお休みになっていたとか。
船着き場では、できたばかりのカフェのチラシを配ってたけど、飲み物しかなさそうだし。
…船に乗る時間ばかり心配していて、弁当も買わずにやってきてしまった…
あれこれ考えながら島の暮らしを想像してみた。
いろいろ聞き取りしてみたくなる。


■「おにの館」

「おにの館」は、小さな食堂を含んだ小奇麗な観光案内所という趣きだった。

「鬼に関する郷土民具」が展示してあるとHPにはあった。
館内の奥の部屋に、それらはゆったりと陳列されていた。

女木島では、島全体を展示場として、各地点に大学生の作品が陳列されているらしい。
島内の観光案内のような作品展示マップが「おにの館」入り口のスペースに拡げられている。

さらに館の外には、HPで見たモアイ像が一体屹立していた。
日本のクレーン会社がイースター島にモアイ像の修理についた。
練習用のモアイ像。
鬼が島のモアイ像。

ううむ。この場所で見どころらしいものをすぐにいくつかクリアしてしまった。

「おにの館」館内で、最も関心をひいたのは、壁に飾られていた数枚の島の祭りの写真であった。
住吉神社のあばれ太鼓の祭りだそうだ。
海に太鼓を渡す。






■鬼が島観光協会

鬼が島観光協会は、山の上の「鬼が島大洞窟」の窓口である。
洞窟入り口までは、島ならではのおそろしい勾配の坂を一気に登っていかなければならない。
交通手段は、船着き場から洞窟まで往復するバスまたは電動式自転車か電動式じゃない自転車。
電動式自転車のすばらしさを体感することにした。


どうにかこうにか洞窟入り口までたどりつき、洞窟めぐりの料金を汗だくで支払っていると、学生さんたちとガイド役を引き受けてくれた観光協会Oさんのやりとりがはじまっていた。

・向かいの山の山頂に見える「日蓮上人像」は昭和12年に高松市より移転されてきたものである。
(誰が何のために何でそんなことを?)。
当時は、島にまだ水道もひいていないころで、セメントをつくるのにいちいち水をくみ上げていたような状況。
山の木を伐採し、その木を土台に像を手でひっぱりあげたということらしい。
四国全体に法華宗はそんなに広まっていないので、この周辺では日蓮上人像は珍しい。
(ではなぜ日蓮上人の像がこの島に?という疑問は観光協会HPに説明あり)
・洞窟案内所に飾られている昆虫の写真は、京都大学の研究者が55年ぶりに発見したという「ちゅうじょう虫」。
洞窟に生息し洞窟で進化したというこの珍しい虫は、発見した先生以外に島の人でも本物を見つけた人がいない。
・大阪大学の研究者がわざわざ調査に来た食べられない絶滅種の「世界最少のメロン」がある。
(なんでそんなものがここに?)。
島の人にとっては雑草みたいなもので捨てられていたという…

……船酔いと空腹と汗まみれの脳内に、さまざまな情報が一気に押し寄せ、混乱と謎を残したまま、すぐさま洞窟めぐりがはじまる。
「日蓮上人像」や「モアイ像」の説明は観光協会のHPで後で確認しよう。
説明は書いてあったと思う。
頭はドンヨリしたまま、テンションだけが上がる。
鬼が島の説明がはじまる。