2017年6月12日月曜日

(実習)淡路島 福良(1)

過去に、小豆島・家島・高松から女木島
・・・かなり瀬戸内の島を訪問している。

今回は、淡路島だった。

文字で書く時間がないので
いくつかの写真を記録に残す。

淡路の高速はバスの中も外も人出多し










(感想)高速から見ても、ため池が多い。
山間の農地の家が思うより大きい家ばっかり。

高速を降りると、生活感が急にわかってくる。
名産玉ねぎ まさにかきいれどき










車窓からいっぱい見えたから、
傍でみると、
けっこう大きな建屋になってる











学生さんは、道の駅の
UFOキャッチャーで
玉ねぎとってきた。

学生さんのインタビューによると、
玉ねぎの巻きの数が違い、
淡路の玉ねぎは甘いそうである。

たしかにおいしかった。

南あわじ市福良港の造船風景










もう、自分のなかでは、
瀬戸内の島といえば造船。
道の駅からは、漁港よりも
やはり造船が目立つ。

もちろん漁港もあるのだけれど。
温泉があるため足湯があり










ちなみにいろんなものが
うずしお型にモチーフにしており

うずしおクルーズの発着場でもあり











淡路人形座で浄瑠璃も上演し




















港ならではの、海鮮料理や、
淡路名産物をしゃれた料理にする
小さなレストランがあり、
(これは、クルーズの会社と同じだった)
その一方で、港自体はほとんど目立たず
シフォンケーキが即完売する店もあり、
ロードサイクリングのポイントでもあり、

要するに、どこに焦点があてていいのか、
わからないてんこ盛りぶりかつ小規模であり
よくあるいろんな人の意見が
折り重なっているような感じの観光名所である。

そして、うずしお型の津波の防災センターがあり

津波ハザードマップ










建物に工夫の凝らされたセンターで、
大真面目な施設でかつ整えられているのだが
お客がいない











2016年11月27日日曜日

(展)『ウィリアム・ホガース 描かれた道徳』

”描かれた道徳”とは何を言うのか?

 11月3日(2016年)に最終日となる伊丹市立美術館、ウィリアム・ホガース展に行ってきた。

伊丹市美術館自体がJR・阪急とアクセスもよく、城跡・町家・アイ・イオンモールとやたら、観光・文化の街になっているとは知らなかった。

美術館と工芸館と町家とそのお庭が楽しめる
お得感の高い駅近の施設だった。
おまけに、文化の日だったので入館無料。

天気が良かったので、時間と体力があったら
駅周辺の旧の町並みをぐるぐる散歩するところだが、ウィリアム・ボガース(以下WH)だけで、気づいたら3時間半も立ちっぱなしだった。

昼飯も抜きだが、版画だけでお腹いっぱいになってしまった。


WHは1700年代のイギリスのアーティストで、当時黎明期を迎えていた出版ジャーナリズムの売れっ子版画家。

物語の挿し絵としての版画もあったが、もっとも有名なものは連作となった作品群で、独自のストーリーを描き出している。


その描き出されたものには、清教徒革命後の議会政治の欺瞞であり、当時の社会風俗であり、それらが辿る歴史の姿であるので、鑑賞のしがいがあった。

ただ、版画を見ただけで、そこに描かれていることを読み解くのは非常に困難でもあることはよくわかった。

たとえば、片隅に描かれている二匹の犬が、当時の重要な道徳である
勤勉と怠惰というテーマを示しているとか、夫婦喧嘩をする夫と妻に扮しながら罪人を見せしめにする習俗とか、まったく解説なしでわかるわけはなかった。

登場人物のなにげない指が自分の胸のペンダントを示し、それはつまり清教徒をイメージを指しているのだ、という解釈も、解説なしで読みとけない。

だから、作品のおもしろさには解説がとても重要なのだが、今回の展示はひとつひとつとても丁寧に解説が付されていた。

展示作品のとなりに、もうひとつコピーを展示し、コピー作品には色づけで、注目ポイントの示してある。

むっちゃわかりやすい。
解説の力を感じた。
じっくりひとつひとつ読んでいたら、時間があっというまにすぎてしまい、途中から腰痛がかなりひどくなってきたという次第である。

『当世結婚事情』などの風俗を映し出した作品では、当時はやりの契約結婚の様子とか、賭事に落ちぶれた人間は獄につながれたり、田舎娘が娼婦として売り飛ばされたあげく、売春の罪で当局に逮捕されたり、あげく梅毒で亡くなったり、作品には上層から下層へと
めまぐるしく変転する人間模様も描かれており、見ごたえがあった。

ボガースの自画像でがは、ペットにパグを飼っているのもお茶目であった。
パグという犬種はこの時代にすでに成立してたんだ、犬好きの感想。

2016年11月23日水曜日

(展)間違えて行った『ヒスイのきらめき』四条畷市立歴史民俗資料館

四条畷の駅から近いと思って歩いたら、
季節はずれの陽気で汗だくに。

女子学園側の入り口から、北方へ
閉店が決まった靴屋の脇の
線路沿いの小道に入る。
靴屋には、「96年間ありがとうございました」
との貼り紙。96年間!
 
東大阪の高野街道の旧来の町並み、
小さな田畑と街を横目に
自動車がやたら多い街道筋を避けて進む。
曲がり角ごとに資料館を示す小さな看板があり、
次の曲がり角までの距離が書いてある。

けっこう歩いて、ようやく到着した。
おかしい。
目当ての展示がない。
場所を間違えたことに気づく。

また、間違えた。
ちょうど、一週間前、
兵庫県立歴史博物館に行こうとして、
兵庫県立美術館に行ってきたところだ。

目当ては、『キリシタンの墓』だった。
よく調べたら、弥生文化博物館だった。

四条畷市立歴史民俗資料館では、
第31回特別展 
『ヒスイのきらめき
ー北河内からみた交流と縄文のまつりー』


ー北河内からみた交流と縄文のまつりー








をやってた。

四条畷市史の古代編発刊も記念して、
上の表紙の特別展冊子は、無料配布である。

公設資料館としてはこぶりだけど、
入館は常時無料だし、
つきっきりで説明受けられるし、
お得感はすごく高い。

館員の方たちは、
積極的に展示案内につとめていて、
来場者ひとりひとりについてくれる。
・・・といっても、このとき、自分も含めて、
順に3人のおじさんが入ってきたのみだが。

間違って入ったとは申し訳なくて言えない。

特集されているヒスイの石の説明。
関西でも東大阪は産地だったらしいが、
戦後すぐに進駐軍がヒスイの乱獲をしていた。
拳銃の銃把に使われることから
価値ある石だったようだ。

縄文の話ではもりあがらないと思われたらしく
ヒスイ裏話ではじまってしまった。
正解。

程度のよいヒスイの産地は
新潟県糸魚川で、
そのあたりの石の出土も見られる。
当時は、すでに北陸地方との
交流もあったのですなー
という話もあった・・・

地層はわかっているだろうから、
後々の人が持ち運んだという案件ではないとしても、
交流なのか移住なのかは判断つかんやろうなー
とかいろいろ想像をたくましくしてみる。

僕の後にやってきた来場者の方は
素直な聞き手で、
どうして石をつかって、
わざわざ着飾ろうとしたのか、
最初にそれをやろうとした気持ちが
わからんですなー、不思議ですなー
と率直に話していた。

説明員の方は、
そりゃ昔もおしゃれしたいしたいですやん、
という返答。













僕も、昔から
最初に石で道具を作ろうとしたり、
細かい石加工を行おうとした人間って
なんなんだろうと、よく思う。
穴はどうやって空けたんだろう。

おしゃれとしては、

階級まではっきりしてなくても、
人より目だって、
立場の上を示すこともあったんだろうな。
目立つことが重要なのかな、
とぼんやり考えてみたりした











おまつりに使ったと考えられている
土面なんかかわいい。
かわいい、ものだったのかどうかはわからないけど。










東大阪市の日下遺跡では、
狭い地域に30体もの遺体も発見されたそう。

その中には、犬の墓も!
 









これは、盛り上がる!

縄文は、犬との共存の社会だったことを
石川県立博物館以来、
再度確認した。

ところで、この遺跡では、













出土した人骨が
個人蔵とされている。

自宅に人骨を所蔵する。
それって死体を所蔵することだなー。

あるいは、遺跡の近くに住むことは、
意味的には、
お墓の隣に住むのと一緒なんだよなー。

こんなこと言い出したら、
狭い日本ではきりがないけれども。

この辺の、お墓の近くは地価が下がる
葬儀会場は近くに立てないで、
という話も狭い日本ではあるなかで、

骨と死と死のケガレへの感覚について、
あれこれ考えてみる。

2016年11月20日日曜日

(展)山は無いけど信太山(駅)、ノビタとは読まない 『弥生文化博物館』1

天保山みたいに本来は山なのだろうか。

住宅街で阪和線信太山駅を降りる。

改札の左隣にスーパー玉出がある。
右側のビルは垂れ幕が目立つ。
  「大衆演劇」「弥生座」が
毎日講演している弥生の里温泉だ。

スーパーの方へ抜けて行くと
信太山新地があるらしい。
昔の赤線地帯があるという
まだあるのかな。
見てみたいけど、足はだるく、
2時を回って腹もへるし、
食べるところを探すことにする。

博物館の方に何かあるだろうと
線路を渡り、いい感じの
旧町並みに入る。

町の掲示板にしか見えない、
自民党の広報板をいくつか過ぎて、
古い町並みの方を選んで進んでいく。


 











本願寺派の光楽寺を過ぎる。
浄土真宗寺院は、
結局、大阪の都市でも
北陸でも九州でも、
集落の町並みのなかに
あるものなんだな、と思う。
他宗派の観光中心の寺院とは違う。

 






盆踊りみたいな音頭が聞こえてくる。

池上曽根遺跡の公園に出ると、
弥生の住居のとなりで、
JA主催の農業まつりをやっている。
フリーマーケットと
食べ物の屋台が出ている。










スーパー玉出以外
コンビニも見かけてないので
イベントの屋台の香りにむかう。
300円の焼きそばで休憩する。

隣の弥生文化博物館に入る。
予想してたよりずっと立派な施設。
ところで今日は、関西文化の日。
入館料、無料!
ロビーは老人ホームみたいになっていた
しかもコンサートがあるらしく
ホールは人で埋まっていて、
ちょっとまずったかと思う。
人気の少ない博物館で
のんびりしようという
算段だった
そうした懸念んもうらはらに
むしろ館内に響き渡る
二胡とシンセサイザーの音楽を背景に
ゆったり閲覧できた
演奏やっている間は、
ビデオ説明の音は、
聞こえなかったけど。

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目的は、特別展
『キリシタン墓とその前史
ー摂津に生きた人々とその証』
たまたま先日の『ヒスイ』から
縄文ー弥生と墓続きとなる。
得たかった資料があって
近世のキリシタンについてだった。
たまたま今週、言及する予定がある
しかし、
その他のポイントにも引っかかり
いつものように長くなった。



2016年11月14日月曜日

(展)人間ポンプの映像は見なくっちゃ『見世物大博覧会』の2

1Fのフロアの半分は、特集・昭和の見世物興業団。

見世物小屋が並ぶ町は、タカマチと呼ばれ、
地域の興行権を持つ歩方との交渉が行われ、
歩方は掛け小屋の丸太の提供してくれる。

タカマチを共有する露天商の
香具師・テキヤと系統は別にし、
見世物小屋は独自の職業世界を形成していた。

明治から続く興行一家の名残りとして、
昭和には、5つの興行団が活躍していた。
藤平興行社・大寅興行社・多田興行社
団子家興行社・安田興行社。

藤平興行社は、狼に育てられた「狼少女」が
鶏を食いちぎる「パサツギ」芸が持ち味。
大寅興行社は、奇術・大蛇・犬と猿の
「魔宮殿」を構築する。
多田興行社は、タンカ(呼び込み)の名人の
アラタンカが有名。
団子家興行社は、「猿犬サーカス」や
「カッパ小僧」を目玉にしていた。

その中でも、安田興行社が
今回の展示の中心だった。


なつかしい「人間ポンプ」。








「イカ男とタコ娘」の
タコ娘の脚をはじめて近くでみた。
細い座布団みたいだった。





「熊娘」のチラシ

「普通一般ノ見世物ト同視サルコトヲ恥ス」
「人体研究普及ノ為」の「大破格観覧料」とされている。
「日野町 札の辻大窪」って滋賀の?









このほかにも
「へび娘」
「女流相撲」


南進座劇団 自来也物語のポスター。

「電気応用空中宙づり一年半の大ガマ」
ってどんな蛙やろう。


「牛人間」のポスターは
もっともらしさを満載にした一品。

提供は、「東京松竹芸能社」
主催は、「教化伝道普及会」
それ、なに?
後援は、「日本仏教連合会」と
「日本神秘霊威研究会」に「家畜愛護連合会」。

少なくとも愛護団体は、
この人体実験を許さないと思う。





「死美人の乳房劇」のポスター

戦前の、”貞子”の恐怖を味わえ!










・舞台からラジオ、映画、テレビへ
見世物界の栄枯盛衰が学べた。

最後の人間ポンプの
安田師匠の演舞映像の鑑賞もあり、

小沢昭一先生の民俗者ばりの
大道芸人の口上収集活動もとりあげられ、

楽しすぎる。





『見世物大展覧会』の1へもどる

(展)江戸の軽業は世界の軽業!江戸・明治の人形怖い!『見世物大展覧会』(1)

いわずとしれた、天下の国立民族博物館の開催です。
公園なのに、自転車も通してくれない万博公園、
入るだけで4・500円もする万博公園で、
以外に圧のある太陽の塔を眺めつつ、
別館の特設展示を見てきました。


こりゃもう昼飯代抜いて、
入館代にしなくっちゃ。









●1階フロアの半分は、
江戸の見世物ー軽業師の紹介から、
明治に入っても世界に紹介される様子まで。


江戸期までの見世物でも
独楽まわしのような曲芸は、
歌舞伎の物語と
セットになっています。







●その他に、江戸期の曲芸の絵を見てると、
軽業がたくさんあるのだけど、
今回の展示では、
猿回しのような、動物使いは
江戸期の分にはありませんでした。




●2階ブースではものづくりを
ほとんどランダムに紹介していて、
いちばんおそろしかったのは、
江戸期のからくり人形のお姿でした。

この写真だと、かわいらしくも見えますが、
実際は、上から光があたっているので、
なんともいえず
おそろしげな表情にしか見えませんでした。



おそろしいといえば、もうひとつ、

「生人形」も
生きた生首みたいで気持ち悪かったけど、
明治の頃には、
本物そっくりな人形の見世物があったそうです。




やがて、映像系エンタメが出てくると、
こういう見世物は消えていくそうですが、
菊人形や、マネキン人形の開発に
進む動きもあったそうです。


●全般に、文明開化から見世物界の影響・変動もあり、
例えば、サーカス団が日本を訪問し、
日本の軽業界に影響を与えます。

一方、日本の軽業師たちが
ヨーロッパ興行も行います。

動物見世物では、駱駝ブームを筆頭に、
珍獣見世物も流行っていたのですが、
やがて、動物園の席捲が起こります。

舞台系の見世物も、
だんだん映像系(映画・テレビ)の影響を受けるようになるのでした。

(その2 につづく)

2016年11月12日土曜日

(読後)「みょ」なんていう萌えはいらない派『あなたが消えた夜に』

● 萌えはいらない

独り言なので、勝手に感想書いちゃえば、
萌え要素は、個人的にいらないと思う。


これは、罪を意識した人間たちが罰を欲する物語。

罰を欲するのは、救いを求めているから。

これは、救われたいと願う人間たちの物語なのだと思う。


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けれども、読みながら思った。

罪を罪と意識するかによって、
この物語への入り方=受け止め方は変わる。

この点は、個人的に興味深くて、
罪を意識する主体の感受性は、
どこからやってくるのか、とか、
どのように成長していくのか、考えてみたいと思った。

というのは、罪を意識する前提は、
ルール、秩序、道徳(社会善)なのか、
神(絶対善)なのか、
あるいは、そのないまぜでどっちでもいいのか。

いずれにしても、
絶対善っていう感覚で話をはじめる前提が
私たちの文化にあるのかが、気になったのである。
まあ、自分で勉強しておこうというポイントですが。

個人内での神の創造というのは、
神って、共同のようで個人に宿るのだから、
そもそも個人的な創造だ、と考える立場なのか、

日本の絶対は、西洋の神の絶対とは違うととらえ、
創造(された)神は、
独特の現代社会現象だ、とみるのか、
文化というワードをついつい考えてしまう性分で、
いらぬことを考えた。

(作中、●●が、
××の++++について、ぽろっとしゃべる、
という場面は●●の救いを求める行為
なんだろうな。
孤独-罪-救い)

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●アクタガワ賞作家という情報

ただ、第2部に入る直前までは、
ミステリーとして冴えない小説にしか見えなかった。

著者の作品は、今回がはじめてである。
”著者の作品は・・・”なんて書くこと自体も、
多分はじめてである。

芥川賞受賞っていう肩書きを意識しない訳はない。

『アメトーク』の読書芸人の回で、
火花で受賞する前の又吉さんと、
オードリーの若林さんが
『教団X』を強く推していたのも印象に残っている。

通勤電車のお供として、
『教団X』か『わたしの消滅』か本書かで迷った。
『掏摸』はその本屋には置いてなかった。

『教団X』は、前から興味があったので、
おいしそうなものは後で残しておくことにした。
それに一番分厚いし。

『わたしの消滅』は、
手にとってみて中身が重そうだし、
独白だらけと予想され、
ということは、多分、それを読んでしまうと、
作者の世界観やなにやらが全て見えてきそうな、
そんな感じがした。
作者が気になったら読む、
というので良いのではないかと思った。

『あなたが消えた夜に』は、
ミステリー仕立てと紹介があり、
自分には一番入り込みやすそうだなと思った。


●若者についていけないおじさん

さて、そしてこれが、
読み始めたらつまらない。

ジュンブンガクなのかな、と思えば、
ライトノベルか、というノリである。
ライトノベルの定義がわかってないけれども。

特に「小橋さん」のおちゃめ要素と、
相棒二人の現代っこ風のやりとりがしゃらくさくて
ついていけない。
”しゃらくさい”という表現が
自分の感覚にはぴったり。
(若作りの「吉原さん」も)

お若い読者には受けるのかな、とは思う。
そこが狙いなのかも、とも思う。
たしかに「小橋さん」はキュートである。
クスッと笑いたくなるシーンもある。
作者はこういうのを書きたいのだろうな、とも。

後で、絶対、物語上で回収しろよな、
このしょうもないシーンにつきあったのだから、と思う。

本の後ろ扉にある
「共に生きていきましょう」というメッセージが
作者についての、よけいな印象を与えている、とも思う。

購入前の立ち読み段階で見てしまった。
個人のサイトあたりで、言ったらいいのに・・・
なんか教祖っぽいなぁ。

内容外で、
作品にチャームポイントつけないでほしいと思う。


本書の印象はこうして、
イヤなタイプ、ではじまり
第1部でさらに、
芥川賞ってこんなものなのか?とすら考えはじめ、
だんだん、「中島」の回想シーンさえ、
いらないように思うようになってきていた。

(後で、「小橋さん」のキュートさは少しだけ
回収して拾ってもらえるのだけれど。)


さて、ところで、
・・・・・・この感想だと、
   若者の会話やノリについていけない
   おやじのグチにしかならない・・・・・・


●不思議な感覚の推理もの

警察ミステリーとしてみると、
描かれる組織の軋轢の陳腐さが気になる。
本格推理として読むと、
推理のどこかふわふわした感じが気になる、
という点はある。

警察機構の軋轢や矛盾は描けば描くほど、
他の本格警察のまぜっかえしに見えてくる。
「中島」と「小橋」の
”軽妙すぎる自意識こだわりまくりのやりとり”や、
神懸かって事件のヒントに出会いまくるためである。

推理的要素は、
そもそも本書を手にとった時から求めていない。

だから、気にしないでいいのだけれど、
コートの男の犯人像について、
コートの男らしさが云々という推理などは、
こういう方向の推理が続くのかーーと思う。

第1部の物語の中心は、コートの男事件と、
「中島」のトラウマなのだが、
その実、ストーリーの牽引力は
「小橋さん」にあるように思う。


● 相棒の小橋さん

全体に、「小橋さん」は物語のアクセントで、
救いになっているけど、
個人的には、こういう救いの兆しは、
紋切り型にすぎると思う。

「小橋さん」は妖精または精霊である。
トリックスターだ。

けれども、この物語では、
「小橋さん」はそれ以上に女神である。

「小橋さん」には悪があるようで、悪がない。

作中には、独白を続ける人々がたくさん出てくる。
そして、自分のにじみ出る悪と罪を語る。

しかし、もっとも登場回数の多い小橋さんは、
ほんの少ししか自分の内面を語っていない。
悪のない、罪のない人間は語るべき内面をもたない。

語るべき内面をもたず
人々をただ超然と眺め、
救いの方向をだけ指し示す・・・・・・

「小橋さん」は女神である。


それゆえに
『あなたが消えた夜に』は似つかわしくなく、
美しいラストシーンの救いの意味を
ぼやかしてしまうように思う。

● 傑作

物語の終盤には、
確かに誰かに・何かに
「中島」の背中を押してほしいとは思うが、
「小橋さん」では少し安直だと思う。

しかし、物語が「中島」にはじまり
実は「中島」で終わる、構図自体はスマートである。

特にエピローグは物語のテーマに深く共鳴し、
しっかり描ききることで感動的に思う。


この物語は、第2部から俄然面白くなってくる。

第1部は萌えが入るたびに手が止まったのに、
1部の終了間際から、
ラストの1行までは一気に読みきってしまった。

文章が美しい。
リズムが心地よい。
長い独白に入り、凄みが出てくる。

独白が続くけど、読書に疲労を感じない。
独白だから、くどい内容もあるけれども、
疲れない。(多分、はじめて著者の本を読むから。)
文章が少なくとも自分の感性には
違和感なくぴったりはまっていて、
流れるように事象が展開し、
気がついたら全てが終わっていた。

精神が壊れていく内容の文章も
特異な表現や、崩壊ならでは表現があっても
つかえることなく読み進められる。

おそらく文章が研ぎ澄まされている。
正直に、すごい、こういう作家なんだ、と思った。

ある意味では
海外ミステリーみたいだとも思う。
内面の語りの表現が押し寄せてくる。

読後に、著書が翻訳されて
市場の評価もよかったことを知った。
そうだろうな、と思う。

いずれにしても、
それまでの登場人物の
罪と救いの物語にはまれる人ほど、
救いを求めるラストに何かを感じると思う。

最後の1行を神々しく感じるなんて
滅多に出会えない体験である。