2009年1月10日土曜日

提出 完了

昨日が締め切りだったが、ほぼ提出が終わったと連絡が入った。

「ほぼ」というのは、一人だけ連絡が来ていないから。

来ないのはあるうる人だけれども、提出を少し心配していた人でもあるので・・・

大丈夫とは思うけど。

2009年1月7日水曜日

提出 初日

4人、提出完了のメールが届く。
一方、質問は2件。
僕自身も副読本と添付書類の手続き上の、そして意味上の違いについて考えさせられる。

ところで、追い込み期だが、一方で年始の授業は通常通り進行している。
年始の授業はそのまま最終課題中、もしくは課題前の授業だから、年末の授業並かそれ以上にバタバタする。
授業の中身の全てにケリをつけなければならない。
全てになるべく注力しようとすると、全てがなんだか中途半端になってしまう。今日の仕事もなんとなくスッキリできなかった。

2009年1月6日火曜日

ブログ操作報告 記事編集

ホリイレポートへのコメント記事を削除する。
本人に対して記事内容の確認を終えた。

クラスメンバーに卒論の共通の課題を提示することが目的だったが、
本人への確認こそがこの記事の命。
まして、一部抜粋でそのまま提示していたので、一定の役割を終えたと判断し、削除とする。

卒論提出直前 最終ゼミ

個別の相談をして、口述試問について説明する。

個別相談で確認した事項について記憶に残ったことを記しておく。
1)文字数を大きくオーバーする場合の対処について
a.巻末資料として整理できるものがあれば、整理し、添付する。
図表などが大量の場合の対処でもある。
b.概略、舞台紹介や、本論に乗り切らない見解や観点を本文から、脚注にまわす。
2)サイトからの引用について、参照サイト自体が何かを引用してテキストを作成しているのであれば、参照サイトが引用・参照している元の資料にあたらなければならない。
原資料にあたるのが大事で、紹介しているサイトを参照先にしてもあまり意味がない。
資料を作った人をまずリスペクトすることが大切だ。

他にも細かいものがあったけれど、印象に残ったのは上記二つ。
そのうち、重要なのは2)だ・・・ということ自体は、もうすでに授業で言っているのだけれど、意味が伝わっていなかった。

2009年1月5日月曜日

卒論相談についての予定

本日(5日)は相談の確約がない(と思う)ので、大学には行かないつもりです。
明日(6日)授業があります。翌日から提出なので参加自由です。
ただし、卒論相談が殺到するものと思います。
このブログ記事内容を読んでいない人は、相談対応しません。
読んでくれというのは無理です。
年末に届いたものまでです。全体は読みません。
質問したいことを用意して授業中に発言してください。
時間外に質問されても答えないようにします。

さらに、いくつかのメール相談にコメントしていないものがあります。
・すでに面接や授業でコメントしているものについての質問2件に答えていません。
・会ったときに一言言えばいいだけの質問、かつ作業もわずかで終わりそうなもの1件
・2度目以降の相談について2件ほど。これは、初めての相談を優先的に行っているため。

最後の講義はさらに13日になります。

卒論相談 イケジリレポート

第2章までは猟奇事件、第3章は猟奇趣味あるいは猟奇に関する環境の変化と猟奇というキーワードを通じての社会状況の読み解きというところでしょうか。
この時期の指摘としては遅いですが、2章のあとになぜ3章なのかが大きな流れとしてはわかりません。紹介をしているだけになっているようです。
また、2章までの事件の羅列もなんの意図があって羅列されているのか(何を言いたくて羅列しているのか)、筆者の設定や目的がわかりにくいです。意図があれば、もっと強調してください。

2009年1月4日日曜日

実習レポート 宝塚から 考える

◎オカタイ指摘、わかる人にしかわからない指摘、教科書みたいな指摘の仕方をします◎
語りを使ったレポートで、気をつけなきゃいけないこと・・・というよりも、皆が気をつけなきゃいけない重要な点がある。
語りで述べられている<できごと>、語られている<意見・見解・感想>などについての、執筆者自身の理解のスタンスである。
語りで述べられている過去の出来事は、体験された出来事であり、もうすでに起こったことであるから、彼らの体験的出来事という事実として紹介できる。そのまま過去の事実として紹介できる。
しかし、体験に対して意見が語られている場合もある。あるいは、社会の出来事に対する見解を述べている場合もある。
これらは、その人個人の主観的な思いであり、解釈である。
それはそのまま現象そのものを説明しているわけではなく、あくまでも語り手を通しての見方である。

言い方を換えると、不足しているのは、語り手が話してくれたことが自分たちの探っている課題についてどういう意味をもつのかという、語りの吟味である。
単純に、データの考察、という作業があいまいである。
よくある失敗例では、まるで、なにもかもが語りのままであるかのように書いてしまう。
インタビューでは、当然のことだが、語り手を通しての現実が語られている。
その語りの意味を吟味するためにいろいろかんがなきゃいけないことがある。
語り手は、例えば全ての宝塚ファンを代表できるのか、例えば宝塚歌劇団の状況を総合的に述べる立場の人であるのかは、語りを吟味する上で、最初に考察される課題である。
そのために、少なくとも語り手のプロフィールであったり、もっと積極的にライフヒストリーを採取しているし、レポートでは必要となってくる。
こういう情報から語られたことの意味や質を理解しようする。

また、別の方角から言い換えると、「書く」ことに無頓着であるとも言える。
筆者は書いたことがらについて、どこまでそれが正当性があるのか、責任をもたなければならない。少なくとも、なんで自分自身がレポートに書いたように言えるのかは(アリモトさんが指摘しているように)読者を説得しなければならない。
そのために、執筆者が、現状を伝える折りに、現状の原因を考える折りに、その現状の様子の理解の仕方や、原因についての見方は、どこから出てきたものであるのか・・・自分自身のFNからなのか、個人の語りなのか、あるいは語り手もさらに伝聞で語っているのか、が確認されなければならない。
その上で、執筆者が書こうとすること、表現しようすることは、こうしたデータを通して現れているのだと主張していく・・・ ・・・

◎おんなじようなことを何度もクドクド書いちゃいましたので、次は、個別の話題。
サメジマ レポート

1)宝塚歌劇チームは三人それぞれのレポートだったと思うので、テーマ性のあるタイトルが必要。
2)創成期の記述について、アリモトさんの指摘の通り。
3)観光パターンは千城さんからの体験的な語りとしてもう少し意識して、千城さんの語りをどう読みこむかという鮫島さんの声が必要。
4)ファンクラブの買い占めも元内部にいた人からの情報や目線としての妥当性を含むものかどうか、元関係者としての状況に関する情報が欲しい。例えば、歌劇団員は、当時、皆、そのように理解していたのか。現在、外から眺めていてそう思うのか。今でも誰か関係者と話していてそういう話がでてきた・・・つまり、現関係者自身がそのように考えているのか。ニュアンスだけになってもいいから「買い占めに関する意見」の状況説明が必要。
5)講演内容が難しい→集客にカゲリも同様。これは、どのあたりの情報からこのように述べることができるのか?

3)4)5)は、上部のコメントと根を一にしています。


卒論 相談**回目

この時期の卒論のコメントは、何を評価するかに関わる。

進度も深度も違うレポートにコメントするのだし、本人が何を書きたいかによる。
そもそも完成は無いのでとにかく指摘し続けるが、相談に来た執筆者は合格サインが欲しい。
一方で、締め切りはわずか数日後。
数日で終わりそうもないことをコメントすることもあるが、それは作成を考えれば当たり前のことであったりもする。

今日は、京都駅近辺で2件の面接。