2009年1月18日日曜日

宝塚に行ってきました(その2)


南口の市街地開発の真紅の熱い報告書はあった。
同じように宝塚駅周辺の開発事業の報告書が欲しいのだが、的外れな探し方をしたのかそれらしきものを見出せない。
手塚治の記念館についての随想録のようなものはあるが・・・

というわけで、次の大判の資料集をとりあえず見ておこう。

宝塚市、2003 『第4次宝塚市総合計画』

○古墳の多いことから宝の塚と古代から称されたというこの地域では、17世紀には、現在の山本・中筋地域の植木が知られるようになる。現在でも、伝統的な植木産業が伝わる農住地域が残されている。
○中世・近世と交通の要所として栄え、近代では明治20年、温泉が知られるようになる。○大正3年には少女歌劇がはじまる。
○観光の名所としては、その他に中山寺・清荒神清澄寺など、伝統的な寺院がある。
○一方、大正初年には雲雀丘・花屋敷を中心に、昭和初年からは仁川・武庫川を中心に宅地開発が広まる。
○観光人口は平成5年の1200万人をピークに、ここ数年、1000万人と落ち込み気味である。また、観光客の95%は日帰りという調査結果がある。


上記の資料集は総合的に問題を網羅しているのみで詳細は踏み込んでいない。
まちづくりについて、何かないかと思って探していたら、次の文献が目に付いた。


瀬川直子 2006 「歌劇の国のタカラヅカ-都市再生の鍵はその宝の塚にあるのか その1-」 市史研究紀要 たからづか 第22号 宝塚市教育委員会

執筆者はジャーナリストの方らしい。
期待していた現代的な都市環境の変化と阪急駅近辺の開発とタカラヅカとの関連についての言及はあまりない。
やはり小林一三の意図について、つまり、歌劇ができたころの話にページ数が割かれており、郊外に目をつけられたことが紹介されている。
後半に、ようやく音楽文化という生活文化を生み出す「土壌の変化」、つまり地域の変貌について触れられている。
ちゃんと読んでないので、コピーしてきた。(続く)


 

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