2013年8月16日金曜日

文献から:バチカン・エクソシスト

しばらく、ブログで紹介している文献が宗教づいているので、関連する記事をもうひとつ公開。ブログ利用が寂しい情況なので、景気付けに。

「バチカン・エクソシスト」 トレイシー・ウィルキンソン 文春文庫

現代でも、カトリックの宗派組織の中で悪魔払いは一定のポジションを持った宗教的儀礼として公認されている。
悪魔払いができる実際の資格があり、制度として成立している。

制度としての位置づけがあるくらいだから、もちろん実際の儀式として常態化している。
儀式の日常化には地域性があるらしく、特にイタリアではこの儀式に関する違和感が少ない。

近代的な社会意識において、悪魔払いは、精神医療的な措置に代わるものとしての理解の仕方がある。
一方で、もっと純粋にオカルティズムを発揮した理解もある。
認められているが、バチカンからは異端とみなされる悪魔払いもある。

・・・
この読書体験をふりかえってみて、いろんなことが頭をよぎる。

現代の日本社会の生活において、宗教はもっとも敬遠される日常生活の活動分野だと思う。

特にオカルティズムは、近代的であろうとすればするほど警戒される。

仏教の本来には、そうしたものを乗り越えていく智慧を語る面がある。
一方で、日本によく広まる仏教には、むしろオカルティズムがつきまとう。
その中には日本的な仏教思想のひとつの極みとして評価されているものもある。
浄土信仰での「あの世」感覚は、オカルティズムなしには成立しないものである。

個人的には、現代は、もうそのような感覚からは遠くかけ離れてしまっているという実感が大きい。
そういいながらも、実生活から切り離されたがためにかえって忌避感と恐れは強まったようにも思う。
しかし、「在家仏教」8月号の紹介にあったように、あの世ではなく、この世の死の受け止めに、宗教自体の社会的意義の軸足は移ってしまっているとも思う。

現代日本という文脈における日本的な仏教・精神性の成立をオカルティズムや超常性という面からきっちり考察しておくことは非常に大切なのではないかという思いが強くなってきている。
「近代に対するオカルト」「近代的知の残滓としてのオカルト」という問題枠組みでとらえたいのではない。
まして「日本人の精神性」などという自己理解の議論をしたいのでもない。
むしろ、そのように考えてしまう精神的土壌を解き明かすためのとりかかりの勉強である。現代のオカルティズムと宗教的土壌のありかたについて、土着宗教性や伝来伝播仏教性の連続と非連続とそれらの可能性から、もういちど勉強し直すべきだと思う。

2013年8月14日水曜日

文献から:「A3」森達也

「A3」森達也

大先輩の西光さんに紹介されて浄土真宗西本願寺派の法華会に参加したのが、2012年の夏。
そのとき聞いたのが、森達也さんの講演。
その夏の、ブログの下書きがたまっているのに気づいたので、もう昔の話だけど、お礼かたがた公開する。

西光さん、今度、害獣となった鹿たちを見にいかせていただきます(笑。

法華会での森達也さんの講演はおもしろかった。
著書で拝見した浄土真宗や親鸞の仏教に対する森さんなりの理解が、実際に確認できたことが自分自身としては印象的であった。
一方、講演後の若手僧侶との対談は、僧侶側にはちょっと荷が重い感じであった。

あの対談を積極的にとらえていこうとするなら、
(絶対言えないことだと思うけど)抽象的に講演打ち合わせ時の社会の中の孤独を語ったのだから、もっと積極的に、宗教のカルト性や信仰で人を殺すまでのあり方を、仏教徒として自分に照らし合わせて語ってみたらどうだろう。

真宗の人はまじめだから、そこまで考えると思うし、
教祖をとりまく現況のわけのわからなさは、社会的課題になり過ぎて切り込みにくいけど、

宗教にはまる、という営みが事件の背景となることについて、あれは同じ社会を生きている人間の活動であり、おなじ社会意識を根っこにして起こる出来事として・・・つまり友人または自分が引き起こす事件として語ることはできないだろうか。
わたしはなぜ、あの事件の当事者にはならなかったのだろうか?
あるいは、情況さえ整えば、可能性はあったのではないだろうか?

あれは宗教にはまりやすい人がおこした特殊な事件である。
宗教にはまるのはこわいよね、と切り分けることは簡単で、理解したつもりになってしまう。
しかし、切り分けているから風化してしまうのだとA3では語られている。
それに、そのように切り分けるのは、真宗の情況もまた『』に閉じこめて、親鸞ブランドに彩られた日本社会で特別な価値を持つ宗教の老舗として認識する切り分けと、おなじことだと思う。
あれは変な怪しい宗教で、こっちは伝統的な宗教です。
この切り分けが、自然に出てくること自体、おかしい。
(もしも僕がキチンと話を聞いていなかったならゴメンナサイ
だ。)

さて、A3は講談社のノンフィクション賞を受賞したこともあり、講演に誘われる以前から所有していたが、誘っていただくことで、ようやくきちんと読むことができた。
特に刑務所内でのおそろしい情況が印象的であった。

社会から刑罰を与えられることの意義
・・・真実を求めること、と、社会から処罰されること、そのバランスを考え抜くこと。
国家/(日常)社会の権力への批判的まなざしがそこにはある。
僕個人は、国家というよりも、国家を支える背景としての(日常)社会のあり方(=人間生活)に関心があるので、日常生活意識批判として大変勉強になった。

とりくみ難い対象テーマに入り込み、社会に対して挑発的見解を果敢に述べる・・・そんなリベラルな姿勢が印象的な書物だが、僕自身は、なぜか何もなくなってしまった事件の舞台となった村を後日譚のように訪れたシーンが印象に残った。

うがった見方をすれば、書くことがなくなって付け加えたような場面に思えるし、ただのエピローグにもみえかねないが・・・
事象が起こった現場を何度も訪ねる、この意義は取材者として考え続けていきたい課題・・・と読みながら感心させられた。








2013年8月13日火曜日

再投塙、写真だけでも

写真に字入れるの苦労したし。
この日の夜は、居場所は内緒だったのです。