2013年9月13日金曜日

滋賀県平和祈念館に行ってきた

意外に遠い。









2012年3月に会館したまだ新しい資料館。
1984年に話が持ち上がり、1991年には具体化した平和記念館なのだそうである。
県内の各種平和教育のサポートも行ってくれる。


子どもたちが見てわかりやすく面白くみられるように展示されていた。
当日も、事務作業のコーナーで、イラストで描かれた昔の女性の等身大看板を制作していた。

バーチャル資料館としてweb上で多種多様な資料が紹介されている。
その中の一部がゆったりを展示されているという印象である。
子どもだけでなく、大人も昔の部屋・生活道具や衣類・食事の実際の展示などがあるので、楽しめる。


基本展示は、滋賀の戦時下の施設ー産業ー生活。
滋賀県内にあんなにたくさん軍事用の空港があったのか、ということや、
比叡山にケーブルつけて、砲台を作っていたとか、
施設跡ははじめて知ったものがあって、面白かった。


今回の企画展示は、集団疎開の児童の話。
充実していた。
当時、大坂から1万人以上の子どもたちが滋賀に集団疎開してきていた。
当時の写真も多く、引率の先生のノート記録やはがきまである。


もっとも目をひいたのは、
当時の子どもたちの書いた絵日記!
まるまる1冊、閲覧できるようになっている!
3冊はあった。
初等科2年生の絵日記は絵も文章も非常に達者なのだった!
4年生のもさすがの日記なのである。
ちゃんと敬語で、「おっしゃっておられた」とか丁寧に書いている。
先生、行ってきます、と、大坂の学校を電車で出発するところからはじまっている。
先生がこれからは日記をつけておきなさい、と言われたそうな。


今回の目当ては、収蔵展示になっていた、戦争体験の聞き取りだった。
県下にお住まいの人々の戦争体験の聞き取りは、1993年から続けているという。
およそ1300人になる、という(多分、そう書いてあった)。
1300人!すご!


戦争体験聞き取りは、以前に企画展示されたらしい。
そのときの案内をまとめた資料があった。

資料には、どのようにインタビューされたのかの手順も書いている。

あとがきのような文章で、調査員の方がインタビューにあたって、自分が工夫してきたことを書いている。
昔の体験は、はじめてあった人にそう簡単に話せるものでもありませんし、すぐに思い出せるものでもありません。
そんなとき、昔の生活道具などを目の前において話をすると反対に話が尽きないことがあります、など。
聞き取りについての考察が面白い。


聞き取られた戦争体験は、「湖の記憶」というタイトルの冊子にまとめられている。
一人一人の戦争体験が実名で登場する。
男性と女性では、やっぱり女性の語りの方が具体性や生活感があって、想像しやすい。

第1巻と2巻は、もう在庫なし。
最新の9巻は、有料販売中。


巻ごとにテーマがある。
ぱらぱら読んでいて、すさまじかったのは、9巻の満州編である。
特に、女性の話が、文字でみるとさらっとすごい話が書いてある。


これ、実名なのかな。
よくしゃべってくれたなーと思う。
もう、昔の話とはいえ。
インタビュアーが良かったんだろうな。

さっき見た、聞き取り企画展示の資料には、聞き取りを文字興ししたあと、本人確認している、って紹介してあった。

2013年9月11日水曜日

水平社博物館に行ってきた



(社会)運動論に関する理解は、限りなく脆弱なので原点を確認に行った。











展示は、戦後の解放運動までの内容で占めている。
その後のことを展示するとなると、いろいろもめそうですが・・・

小さいながらも当時の状況を想像させるような仕掛けがあって楽しめた。
タイムトラベル物語として、水平社結成大会に参加するという映像は、みんな面白いと思うだろうな。

大坂の人権博物館と展示内装が似ているような気がしたが、博物館ってどこもあんなものだったけ?



どこかで見たような気もしたけれども、あらためて阪本清一郎さんのインタビューなどを映像で見れてよかった。

差別の「糾弾」という、はじめて接する人がほとんど引いてしまう単語を、どのような意味でとらえていて、なぜ採用したのかを語っていた。

年輪を重ねて振り返った言葉かもしれないけれども、あー、やはり、そのような意味合いでもあるのかー、と腑に落ちることができた。
攻撃的で、叩き潰すような印象の言葉だが、糾弾の糾の意味を強調していた。

西光万吉さんによる、水平社宣言の文言への振り返りも面白い。

京都の工場勤めで暮らしてた宿舎の物干しで、ゆっくり考えていた、とか。
あれは、ちょっと宗教じみた神秘的な言葉づかいやった、とか。

やっぱりそう思うよなー。
それゆえ、感動的でもあるのだけれど。











水平社運動のはじまるこの土地はそもそもどういう性格をもった地域であったのか、という歴史もあらためて確認した次第。

古代において、神武天皇領からすると丑寅の方角に位置し、鬼門の清めの役を担っていた集落なのではないか、というのが発祥の話に出てくる。

古文書では、「草葉」と称される広い耕作地帯の弊牛馬の処理を権利としてまかされたことがわかっている。

そこから、膠の産業が発達してきた地で、明治に入ってこの産業の需要は高まったという。

2013年9月10日火曜日

京都市学校歴史博物館に行ってきた


昔の学校の写真や、教科書など教具の展示が、超 面白かったー。

ちょっと、学芸員の方と話していたら、「大学生ですか?」と聞かれたのが、いちばんの驚きであった。
いくら暗がりとはいえ。


博物館は、開智小学校を改築したものである。
お寺のような門を入る。
敷地内に校舎がある。となりの校舎みたいなのは保育園である。


京都の小学校は、明治2年に始まる。
それも、町衆たちの手によるもの。
洛中の「組」組織の変更とともに、「番」組組織へと自治体の再編成が行われた。
番組に一つずつ、小学校が設置された。
ということだから、京都の洛中を挙げての大事業であった。
なかには、800両もの借金をした場合もあった。

そうなのかー。


なぜ、町衆の手による小学校の整備なのか?

天皇とそれにまつわる人々の、明治2年の東京への大移動があった。
町おこしとして小学校事業がとらえられていた。


文部省により開始される小学校は、明治5年。
学制に先んじて行われた京都の小学校の特色は?

●市役所、警察署、消防署が校舎の中にあった場合あり。
実際に学校の屋根に火の見櫓みたいなものがあった。

●読み物の底本は、石田梅岩にはじまる石門心学であった。

●授業に日本画というのがあった!
実際の生徒が書いた絵というものも展示されていた。
墨絵である。


昔の教科書が展示してある。
戦後すぐの「墨ぬり」の教科書も、はじめて実物を見た。

なかでも明治初年や大正の「読本」とか「修身書」がおもしろい。
実物の1.9倍大に復刻したものを実際に読めるように展示している。

その他、教科書で個人的に印象に残ったこと。
●明治初年の文部省お達しの教科書は、啓蒙的であった。
科学的である・・・は知っていたが、
修身の内容に、衛生学の知識が盛り込まれ、衛生ー身だしなみについて述べられていることが教科書で確認できた。
おもしろい展示は、女学生と警鐘(メザマシドケイ)のエピソードを記述している教科書の展示だった。
ある女学生は、警鐘(メザマシドケイ)を使うことで、きちんと起きて生活する習慣ができるようになった。

そのほか、「ウシ ガ イマス」など、「読本」は読み出したら、止まらないね。


教科書以外にその他、印象に残ったこと。

●明治11年には、盲唖の学校が開かれ、カリキュラムも組まれている。
京都、早い。

●学校給食は、昭和3年にすでに食に困る子どもたちに向けて始めている。
戦局が厳しくなる19年あたりまで、続けていた模様。