「唐人殺し」の世界ー近世民衆の朝鮮認識 池内敏
臨川書房 1999
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タイトルのみ。
”「唐人殺し」の世界”とだけ表示される。
まるで闇世界のノンフィクション本のように見えるなぁ。
これは、由緒正しい立派な歴史の学術書である。
古文書を緻密に読み解いている。
ただし、内容はまるで警察小説、政治小説なみである。
好みによると思うが。
古文書資料部分について、現代文で表記してくれるので読みやすいので助かる。
立ち読みしてたら、面白くて家に持ち帰って一気に読んでしまった。
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1764年4月6日、朝鮮人・崔天宗が宿泊先の西本願寺津村別院にて殺害された。
何者かに喉を一閃、掻き切られたようである。
仲間の通信使団の見守るなか、多量の失血により翌朝までに死に至った。
崔天宗は、朝鮮王朝より派遣された朝鮮通信使団の中官の一人である。
今回の来日は、第10代徳川将軍家治の襲職の祝いへの参加のためであった。
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朝鮮通信使側は、三名の上々官を中心に声明文を作成し、迅速な罪人への対応を大坂町奉行所に伝達・要請した。
現場には残された犯行に使われた凶器の情報とともに。
凶器は、「魚永」と刻印された日本製の短刀であった。
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通信使の要請に対し、大坂町奉行所の動きは鈍かった。
大坂町奉行所は、外交通使訪問中の殺人事件という特殊案件に消極的だった。
朝鮮通信使に対応する日本の窓口は対馬藩である。
事件は対馬藩にて処理せよ。
対処できないのであれば、相談に乗る。
大坂町奉行所の姿勢は積極的とは言えなかった。
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対馬藩の動きも鈍い。
事件担当が決まり、検分した当初、殺害について意見は割れていた。
倹使となった対馬藩目付桜木は、崔天宗の死を自殺と推察した。
直前に朝鮮使同士でのいさかいごとがあったということが先入観になっていたかもしれない。
一方、検分に同道した大石伝十郎は、件の日本刀の情報から、他殺、それも犯人は日本人という見立てをしていた。
藩の見解としては、自殺の線で事件を処理しようとしていた。
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幕府は、対馬藩に通信使の帰国の便を計るように伝えた。
帰国が引き延ばされるのは、問題が大きくなり、よろしくない。
瑕疵のないように送り届けるように。
対馬藩は、これを拒否。
事件の解決もみないのに、簡単には返せない。
それどころではなかった。
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通信使側は、殺害した罪人の処分を確認しない限りは帰国はできないという姿勢である。
本国に帰って説明もできない。
いったい、日本側は何をしているのか。
殺害した犯人を一刻も早くとらえ、刑に処せよ。
命を奪うものは、命によって代償するべきである。
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そのころ、対馬藩ではひとつの噂が広まろうとしていた。
事件をうけて召集をかけられた通詞のうち、鈴木伝蔵だけがいつまでたっても姿を現さなかった。
4月13日、ようやく伝蔵の家来が主人の書簡を藩に届ける。
書簡の内容では、伝蔵による殺害の自白が認められた。
伝蔵捕縛のため、日本側が動きはじめる。
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伝蔵の足取りを追うなか、伝蔵を匿った人物が特定される。
最初は事件なんて知らなかったと証言したが、実は、伝蔵逃亡のためのア
リバイ工作だとわかる・・・
4月18日、伝蔵、捕縛。
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崔天宗殺害に対馬藩内部の人間が関わている。
消極的だった大坂城代は、江戸の命を受け事件解明に動きだす。
対馬藩を通さず直接に通信使と書簡による連絡をとりはじめた。
対馬藩は、正式な筋を通さず「脇筋」から朝鮮とやりとりをするものとして不快感を示す。
幕府からの直接の文書内容を通信使より内密に伝え聞き、大坂城代との駆け引きの末、事件解明の主導権を確保する。
大坂城代の事件への審議は、対馬藩に書簡による問い合わせという形に収まる。
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鈴木伝蔵の自供によれば、事件は以下のような顛末で起こった。
朝鮮通信使が長浜に到着したとき、一騒動がもちあがった。
ある下官の荷物の中の鏡がなくなったという。
通信使は運搬に関わった加子があやしいと睨んでいた。
この騒動に対処したのが、通詞鈴木伝蔵であった。
午前に起こったにわかに起こったこの騒動は、午後には、御堂宿所において、崔天宗と伝蔵との口論に発展した。
伝蔵の供述によれば、崔天宗から日本を辱める言があった。
さらに、口論の末、伝蔵は衆人環視のなかで崔天宗から打擲されたという。
その辱めをただすため、深夜に打ち果たしたというのである。
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伝蔵によれば、朝鮮通信使側に顔を見られた覚えがある。
しかしながら、犯人を名指ししないのは、知らぬふりをして出勤のおりになぶりものにするつもりである。
だから大坂に逃げたということである。
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また、崔天宗を討った伝蔵は、多少の正統性を主張する。
崔は、日本を辱めた。
対馬藩では、辱めを受けた場合、通信使を討ち取るべし、という上からの教えがある。
殺害には正統性があるのだ。
しかし、事の詳細はあいまいなまま、4月29日、伝蔵は死罪を言い渡される。
死罪は既定路線であるかのようだった。
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著者の池内氏によれば、
日本をはずかしめる言動があったかどうか、
対馬藩に辱めに対する掟があったかどうか
幕府は最終的な詰めは行わず、処罰が優先された。
むしろ積極的に立証する気はなかったというのが、本書の分析である。
一方、朝鮮通信使側からすれば、犯人は日本人と決まっている。
速やかに犯人を差し出されなければ、両国の関係に問題を生じる。
対応は迅速に行われるはずである。
ところが、遅々として進まぬ事態にストレスは増すばかりである。
朝鮮との関係を考慮した幕府は、厳しい処罰で誠意を示そうとしていたフシがある。
事件関係者は厳しく処罰された。
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対馬藩としては、事件は不慮のできごとである。
幕府としては、事態の管理責任を対馬藩にただす必要がある。
事件の解明により、伝蔵は通詞のとりきめである津村別院での通信使との同宿をしていないことがわかった。
対馬藩にはそもそもの管理責任がある。
事件をめぐり、日本の統治機構内部において、中央と地方とのイニシアチブをめぐる駆け引きが起こる。
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両国の関係を考慮しての駆け引きがこの事件にまつわる人々に様々な影響を与える。
通信使たちは、帰国後、事件解明が長期化したことの責を追及される。
日本では対馬藩家老以下19名の責が問われ処罰され、朝鮮では通信使の事態収拾への責が問われる。
管理能力を問われる問題になる。
他方、対馬藩からは、朝鮮文化と日本文化の違いから、伝蔵の行為を擁護する見解もとびだしてくる。
朝鮮文化では打擲は日常だが、日本では名誉が問題視される。
衆人環視のもとでの打擲では、伝蔵の気持ちもさもあらんという同情論をベースとした、朝鮮側の日本無理解に批判的な意見である。
朝鮮と日本の相互理解の困難さをベースに議論しながら、朝鮮に対する幕府の態度を批判的にとらえながら、他方で、朝鮮事情を理解しうるのは対馬であるという自負が現れる議論である、と著者はいう。
事件は、個人的な感情のもつれ、思いの行き違い、相互の不信感がつのるなか、国家体制からは両国において担当機関の管理能力の問題として処理されていく。
その意味で事件はやがて封殺されるべき運命にあった。
しかしながら、人々の思いは風聞として伝わっていく。
風聞故の歪みを伴いながら。
本書のもうひとつの試みは、風聞がやがて文芸の作品として定着する過程を分析することにある。
定着の中で、明らかにされなかった両国の関係から、対外認識の歪みを固着させるーその発生の道筋の分析を行うーーー興味深い研究である。