2013年8月31日土曜日

本:「唐人殺し」の世界ー近世民衆の朝鮮認識

「唐人殺し」の世界ー近世民衆の朝鮮認識 池内敏
臨川書房 1999


本の整理に使っているwebサービス「BOOKLOG」では、この本のサブタイトルが表示されない。
タイトルのみ。
”「唐人殺し」の世界”とだけ表示される。
まるで闇世界のノンフィクション本のように見えるなぁ。

これは、由緒正しい立派な歴史の学術書である。
古文書を緻密に読み解いている。

ただし、内容はまるで警察小説、政治小説なみである。
好みによると思うが。
古文書資料部分について、現代文で表記してくれるので読みやすいので助かる。

立ち読みしてたら、面白くて家に持ち帰って一気に読んでしまった。


1764年4月6日、朝鮮人・崔天宗が宿泊先の西本願寺津村別院にて殺害された。
何者かに喉を一閃、掻き切られたようである。
仲間の通信使団の見守るなか、多量の失血により翌朝までに死に至った。

崔天宗は、朝鮮王朝より派遣された朝鮮通信使団の中官の一人である。
今回の来日は、第10代徳川将軍家治の襲職の祝いへの参加のためであった。


朝鮮通信使側は、三名の上々官を中心に声明文を作成し、迅速な罪人への対応を大坂町奉行所に伝達・要請した。
現場には残された犯行に使われた凶器の情報とともに。
凶器は、「魚永」と刻印された日本製の短刀であった。


通信使の要請に対し、大坂町奉行所の動きは鈍かった。
大坂町奉行所は、外交通使訪問中の殺人事件という特殊案件に消極的だった。
朝鮮通信使に対応する日本の窓口は対馬藩である。
事件は対馬藩にて処理せよ。
対処できないのであれば、相談に乗る。
大坂町奉行所の姿勢は積極的とは言えなかった。


対馬藩の動きも鈍い。
事件担当が決まり、検分した当初、殺害について意見は割れていた。
倹使となった対馬藩目付桜木は、崔天宗の死を自殺と推察した。
直前に朝鮮使同士でのいさかいごとがあったということが先入観になっていたかもしれない。
一方、検分に同道した大石伝十郎は、件の日本刀の情報から、他殺、それも犯人は日本人という見立てをしていた。
藩の見解としては、自殺の線で事件を処理しようとしていた。


幕府は、対馬藩に通信使の帰国の便を計るように伝えた。
帰国が引き延ばされるのは、問題が大きくなり、よろしくない。
瑕疵のないように送り届けるように。
対馬藩は、これを拒否。
事件の解決もみないのに、簡単には返せない。
それどころではなかった。


通信使側は、殺害した罪人の処分を確認しない限りは帰国はできないという姿勢である。
本国に帰って説明もできない。
いったい、日本側は何をしているのか。
殺害した犯人を一刻も早くとらえ、刑に処せよ。
命を奪うものは、命によって代償するべきである。


そのころ、対馬藩ではひとつの噂が広まろうとしていた。
事件をうけて召集をかけられた通詞のうち、鈴木伝蔵だけがいつまでたっても姿を現さなかった。
4月13日、ようやく伝蔵の家来が主人の書簡を藩に届ける。
書簡の内容では、伝蔵による殺害の自白が認められた。
伝蔵捕縛のため、日本側が動きはじめる。


伝蔵の足取りを追うなか、伝蔵を匿った人物が特定される。
最初は事件なんて知らなかったと証言したが、実は、伝蔵逃亡のためのア
リバイ工作だとわかる・・・
4月18日、伝蔵、捕縛。


崔天宗殺害に対馬藩内部の人間が関わている。
消極的だった大坂城代は、江戸の命を受け事件解明に動きだす。
対馬藩を通さず直接に通信使と書簡による連絡をとりはじめた。
対馬藩は、正式な筋を通さず「脇筋」から朝鮮とやりとりをするものとして不快感を示す。
幕府からの直接の文書内容を通信使より内密に伝え聞き、大坂城代との駆け引きの末、事件解明の主導権を確保する。
大坂城代の事件への審議は、対馬藩に書簡による問い合わせという形に収まる。


鈴木伝蔵の自供によれば、事件は以下のような顛末で起こった。

朝鮮通信使が長浜に到着したとき、一騒動がもちあがった。
ある下官の荷物の中の鏡がなくなったという。
通信使は運搬に関わった加子があやしいと睨んでいた。
この騒動に対処したのが、通詞鈴木伝蔵であった。
午前に起こったにわかに起こったこの騒動は、午後には、御堂宿所において、崔天宗と伝蔵との口論に発展した。
伝蔵の供述によれば、崔天宗から日本を辱める言があった。
さらに、口論の末、伝蔵は衆人環視のなかで崔天宗から打擲されたという。
その辱めをただすため、深夜に打ち果たしたというのである。


伝蔵によれば、朝鮮通信使側に顔を見られた覚えがある。
しかしながら、犯人を名指ししないのは、知らぬふりをして出勤のおりになぶりものにするつもりである。
だから大坂に逃げたということである。


また、崔天宗を討った伝蔵は、多少の正統性を主張する。
崔は、日本を辱めた。
対馬藩では、辱めを受けた場合、通信使を討ち取るべし、という上からの教えがある。
殺害には正統性があるのだ。
しかし、事の詳細はあいまいなまま、4月29日、伝蔵は死罪を言い渡される。
死罪は既定路線であるかのようだった。


著者の池内氏によれば、
日本をはずかしめる言動があったかどうか、
対馬藩に辱めに対する掟があったかどうか
幕府は最終的な詰めは行わず、処罰が優先された。
むしろ積極的に立証する気はなかったというのが、本書の分析である。

一方、朝鮮通信使側からすれば、犯人は日本人と決まっている。
速やかに犯人を差し出されなければ、両国の関係に問題を生じる。
対応は迅速に行われるはずである。
ところが、遅々として進まぬ事態にストレスは増すばかりである。

朝鮮との関係を考慮した幕府は、厳しい処罰で誠意を示そうとしていたフシがある。
事件関係者は厳しく処罰された。


対馬藩としては、事件は不慮のできごとである。
幕府としては、事態の管理責任を対馬藩にただす必要がある。
事件の解明により、伝蔵は通詞のとりきめである津村別院での通信使との同宿をしていないことがわかった。
対馬藩にはそもそもの管理責任がある。
事件をめぐり、日本の統治機構内部において、中央と地方とのイニシアチブをめぐる駆け引きが起こる。


両国の関係を考慮しての駆け引きがこの事件にまつわる人々に様々な影響を与える。
通信使たちは、帰国後、事件解明が長期化したことの責を追及される。
日本では対馬藩家老以下19名の責が問われ処罰され、朝鮮では通信使の事態収拾への責が問われる。
管理能力を問われる問題になる。

他方、対馬藩からは、朝鮮文化と日本文化の違いから、伝蔵の行為を擁護する見解もとびだしてくる。
朝鮮文化では打擲は日常だが、日本では名誉が問題視される。
衆人環視のもとでの打擲では、伝蔵の気持ちもさもあらんという同情論をベースとした、朝鮮側の日本無理解に批判的な意見である。
朝鮮と日本の相互理解の困難さをベースに議論しながら、朝鮮に対する幕府の態度を批判的にとらえながら、他方で、朝鮮事情を理解しうるのは対馬であるという自負が現れる議論である、と著者はいう。

事件は、個人的な感情のもつれ、思いの行き違い、相互の不信感がつのるなか、国家体制からは両国において担当機関の管理能力の問題として処理されていく。
その意味で事件はやがて封殺されるべき運命にあった。

しかしながら、人々の思いは風聞として伝わっていく。
風聞故の歪みを伴いながら。
本書のもうひとつの試みは、風聞がやがて文芸の作品として定着する過程を分析することにある。
定着の中で、明らかにされなかった両国の関係から、対外認識の歪みを固着させるーその発生の道筋の分析を行うーーー興味深い研究である。

2013年8月28日水曜日

「一向一揆歴史館」へ行ってきたの巻の3


(承前)

浄土真宗門徒は、室町時代の文章で「親鸞門弟」と書かれているのがあった。
ちらっと斜め読みした論文では、「初期真宗」は「一遍の時宗との混同」もありながら、一向宗と呼ばれていた事情などが議論されていた。

で、論文なんかチェックしだしたし。

そもそも村落組織だとか、貨幣経済だとか、徐々にそれらしい形になってくる時代の話だ。
宗教的な活動も、暮らしの様々な要素と分かち難く、後々の研究者が巧みに言葉を使って整理しなければならないものだろう。

とにかく、当時の人々が「それ」をなんて呼んでたかという疑問はかなり奥が深い。
認識自体の成立という社会史的な生成論とか気になってるし。
とっても、難しそうだし、面倒だから、いつかやることにする。


もうひとつ、真宗内の諸派の成立とその意味についても。
なんかすごい難しいので、いつかだな。

本願寺派は、開祖:親鸞→2世:如信→3世:覚如→4世:善如
木辺 派は、開祖:親鸞→2世:如信→3世:覚如→4世:存覚
出雲路派は、開祖:親鸞→2世:如信→3世:覚如→4世:善入
仏光寺派は、開祖:親鸞→2世:真仏→3世:源海~14世:経誉
興正寺派は、開祖:親鸞→2世:真仏→3世:源海~14世:蓮教
高田派 は、開祖:親鸞→2世:真仏→3世:顕智
山元派 は、開祖:親鸞→2世:善鸞→3世:浄如
誠照寺派は、開祖:親鸞→2世:道性→3世:如覚
三門徒派は、開祖:親鸞→2世:如導→3世:如浄

系図だけ手に入れた。

そこで、本願寺派第8世となった蓮如から、はじめることにする。

1457年、蓮如は本願寺の住職となった。
40歳を過ぎて、父・存如から引き継いだという。
けっこう、年だ。
そして、もちろんそれは跡目争いの末の継承だった。


蓮如を推したのは、存如の実弟である如乗という人。
蓮如の叔父にあたる
年齢は、蓮如より3歳年上。
如乗は、31歳で二俣本泉寺を建立した。
蓮如の次男の蓮乗は本泉寺に如乗の娘婿として入る。
(蓮乗という名前自体、蓮如と如乗の間の子ドモミタイダ)


一方、本願寺跡目争いを蓮如と争った敵役は、蓮如の継母の如円とその弟・応玄という。
跡目争いにやぶれた如円・応玄は、経典などを持ち出し、大杉谷(in加賀)に逃がれた。
(やっぱり、加賀の国なのか。後々、如円は死去、応玄はもどる)


そんなふうに跡目争いが起こっていたが、本願寺は貧窮していたという。
本願寺派は他派の隆興に比して、門徒も少なく貧しかったそうな。
で、蓮如は、なんとかしようという意識が高く、研鑽も熱心であったそうな。

新たな本願寺住持となった蓮如は、あの布教・強化システムをスタイルとして確立する。
「おふみ(御文)」、「御文章」によって”説明”され、木像でも絵像でもない、六字の「名号」の「下付」という制度化による布教・教化システムの登場である。

全然宗教に関心がなくても、「御文章」にはときどき出会うと思う。
家の宗派が浄土真宗の場合、知らない人でも葬儀や法要で出会う、と思う。
「白骨の・・・」というものとか。

実際に、読んだり聞いたりすると、書いてあることがわかったような気になることもある。
読みながら、これは親鸞ではなく蓮如の言葉なのだなぁと、法要の成り立ちついて考えてみる。
妻の葬儀の荼毘の直後の法要で、白骨の・・・を聞いてるうちに葬儀中はじめて涙が出てきたという思い出がある。
はじめて御文章を頭を垂れて聞いたような気がしたものである。
これは難しい感情で、ムカつきやらいろんなものが混在してたけど。
言葉というものには、本気で感じ入る・傷み入る時期っていうものがあるんだよねー。


話、逸れた。
御文章による教義解釈システムと、名号の本尊を本願寺から下付するというシンボライズは、教化として成功を納めていったらしい。

「御文章」とはつまるところ、蓮如の言葉で、教義をわかりやすく説明してやったものだ、と思っていい(と思う)。

本尊(六字の名号の掛け軸)は、傷んだら本願寺に返納して新しいものと交換してもらえたらしい。
本願寺を本山とする末寺とのつながりは、こうして精神的にも経済的にも強化されたのである。
経済的に、というのは、本尊には御礼金納入システムもあったそうである。
そして、貨幣経済が成長し流通の発達する時代、湖上輸送に潤う堅田門徒もいたのだ。

無理矢理、近江の話にもどした。

(つづく)

2013年8月25日日曜日

「一向一揆”歴史館”」に行ってきたの巻の2


正しい名称は、一向一揆歴史博物館ではなくて、一向一揆歴史館だった。
前の記事では間違えていた。

ともかく、加賀の一向一揆の背景をまとめようと、どんどん更なる過去の話のまとめになってきた。
過去に後戻り。
よくあることだ。
ブログ記事にするもんじゃないけど。
まとめるモチベーションを維持するために残す。

加賀だけじゃなく、近江の歴史まで振り返ってきた。
もう歴史館の内容を超越した。
ついでだから、近江から越前・越中・加賀の一向一揆を考えるための宗教的背景のいくつかを確認する。


まずは、近江比叡山の天台宗のはじまりから

778年、最澄は12歳で出家し、近江国分寺に入る。
最澄は、中国からの渡来人の子孫。
785年、19歳で東大寺で具足戒を受けた後、山林修行のため比叡山入り。
788年、一乗止観院(根本中堂)を建立。
805年、空海らとともに中国に留学生として選出されて帰国。
和田岬(神戸)に能福護国密寺を開く。
日本最初の密教の教化霊場らしい。
翌年、日本の天台宗がはじまる。
延暦寺という名称自体は、最澄が没した後の824年から。
延暦寺とは、東塔・西塔・横川の総称である。

その延暦寺のある比叡山の信仰となると、もっと古い。
古事記には、日枝山として比叡山が登場する。
近江国日枝山には大山咋神が鎮座していた。
京都の鬼門に位置し、城を護るとして信仰がはじまっていた。
日吉神社とは日枝神社と同義であり、神仏習合期に山王さんと称されるようになる。

これは、このへんで止める。


一方、加賀・越前の山岳信仰は、白山信仰として知られる。

717年、越前の僧、泰澄が白山を開いたとされる。
白山禅定道(登拝)は、加賀の白山本宮(白山比メ神社)、越前の白山神社(平泉寺)、美濃の長滝白山神社(長滝寺)の3つが有名。

白山信仰には、古くからの阿弥陀信仰に、熊野の阿弥陀信仰・蓮如の本願寺派の阿弥陀信仰が影響を与えたと言われる。

熊野信仰は、本地を阿弥陀如来とする。
(一遍も熊野本宮で、阿弥陀如来の悟りを開く)
(本地垂迹とは簡単にいうと、神々は仮の姿(垂迹)であり、その本質は仏(本地)であるとする説。
他宗教と融合しながら仏教普及に利する概念)
熊野の宗教的背景としてもっと古い記録では、日本書紀にイザナミ尊を葬ったところがあるとされている。
まあ、とにかく信仰の対象として古くからいろんな意味を持っていた。

この熊野本宮を護る氏として、鈴木氏が有名である。
(明治以降に、全世帯に名字が許される=義務化される依然の話なので、古い氏としての鈴木の話である。)
鈴木氏は本姓として穂積姓が知られる。
穂積姓を本姓とする鈴木氏は、神官を受け継ぎ、御師(おし)(先達)となって、特に東日本に信仰を広めた。

信仰が広まると、神社が建立するまで大木に鈴をかけて、信仰の対象にしていた。
その木を鈴木といったのだ、という話もある。
完成した神社には、本殿の切妻に鈴を下げた。
神社の鈴はその名残だという話もある。
そんな特徴があり、穂積姓でなくても熊野本宮の信仰の深いものには、鈴木姓が与えられてきたそうだ。

たとえば、戦国時代の話に出てくる三河の鈴木氏とか、雑賀衆の鈴木孫一の鈴木も、この熊野神官の鈴木の支流なのだそうである。

そして、正確な時期までわからないが、加賀にも熊野神官の一族である鈴木氏が訪れたという。
やがて彼らは土着し、二曲(ふとげ)氏を名のるようになった。
この二曲氏は、加賀一向一揆で有名である。

ああー。雑賀衆と加賀とのつながりがやっと見えてきたー。
加賀の鈴木ー二曲氏も、紀伊の鈴木ー雑賀氏も、本願寺派になったのですなー。

ちなみに、今回の文章で書いている本願寺派は、現在言うところの本願寺派とは違う。
現在の"本願寺派"は、"西本願寺派"を意味する。
これに対し、"東本願寺派"は、"大谷派"という。
蓮如の時代の"本願寺派"は、その後の戦国から江戸期にかけて、東本願寺(=大谷派)と西本願寺(=本願寺派)に分かれる。

この文章にある本願寺派は、仏光寺派・高田派・興正寺派という現在も残る諸派に対する、蓮如の本願寺派である。

ついでに、浄土真宗という名称も明治以降の名称である。
その前は一向宗という名前が有名である。
浄土なんたらという呼び方もあったのかな?
そこで気になるのは、一向宗というのは、周囲からの呼び名だけでなくて、自称でもあったのだろうか?という基本的なことなのであった。