2013年12月27日金曜日

映画「新世界国際劇場に映画見に行ってきた」

新国際劇場に見逃した映画見に行った。
新国際劇場は、ほとんど通天閣の足元といえる距離。

小さい映画館は久しぶりなのでちょっとうれしい。

昼前についたので、ジャンジャン横丁も商店街も人影はまばら。
観光客と従業員が同じくらい。仕出しや営業車もまだ多い。

しかし。
洋画・成人映画の看板のある角を曲がると、いかにも着ぶらりでやってきた近所ふうの高齢者が数人、一角に集まっている。

開店前のパチンコ屋みたい。
路上に座り込んでいる人もいる。

で、そこが、映画館の入り口だった。
自動ドアの前に成人映画用と洋画用の自動券売機が設置されている。
とにかくトイレ入りたいので、さっさとお目当ての映画のチケットを1000円で購入する。

ちなみに洋画の3本立て。

1000円で3本見れるのか。
ロードショー期間を外した映画の3本立ても今では本当に珍しくなった。
お目当ては2番目の上映作品だが、1本目は「エリジウム」だ。
公開されたばかりだから、まだDVD化されてない。
先日、シネコンの大人料金で見てきたばかりだ。

壇蜜にそっくりな未亡人が描かれている成人映画の看板の下に設置されている券売機にお金を投入すると、ほとんど同時に隣の券売機でお兄さんが成人映画のチケットを購入した。
たしか、それも1000円。

押しボタンを押して自動ドアの入り口を通る。
入り口は一つしかない。

つまり成人映画も洋画も入り口は同じ。

押しボタン付きのちいさな自動ドア。
ドアの横にもぎりの(高齢の)お姉さんがいる。

すぐ目の前に上映ホール扉と地下に入る階段がある。
階段横に地下劇場と示してある。

どっち行ったらええんやろ?とお姉さんに聞いたら、洋画観るの?と確認された。
そういえばチケットには「大人1000円」しか印刷されていない。
うん、そう、と答えたら、目の間の扉、と指示される。
地下の階段は成人映画用ホールに向かう。

と、いうことは、どっちの1000円買おうが、どっちとも見られるのではないだろーか。
もぎりのお姉さんに怒られるだろうか。

そんなしょーもないことよりトイレ行きたい。
「男子洗面所」と書いた扉を押し開ける。

真っ暗な広い空間が見えた。

扉を開けた際の出入り口の光がさっと広い空間に流れ込み、映画のスクリーンに1本目の「エリジウム」のエンドロールが流れているのが目に入った。
スクリーンの脇に、もう一回「洗面所」の文字が光っていた。

ああ、上映ホールの中にトイレがあるのだなー。
ホールは、昔の規模ではかなり大型で、右端が男性・左側が女性のトイレである。
トイレから出て、そのまま着座し、「エリジウム」のタイトルロールを眺める。

観客はおじさんばっかりである。
きっと観客の平均年齢は60歳を越えていると思う。
冗談でなく、病院の待合室の老人会(男のみ)化と同じである。

成人映画と入り口が同じだから、よく考えたら当たり前か。

2階席もある。
これは、なつかしー。

スクリーンに自動カーテンが上映のたびに閉じたり開いたりする。
これも、なつかしー

左側の女性用トイレの前だけ桟敷になっている。
見上げると、天井は茶色く薄汚れている。
きっと煙草のヤニでも汚れた歴史があるんだろうなー。

映画を見るよりも2階席から1階席を眺めているだけのおじさんもいる。

僕の頭上の少し後ろがちょうど2階席の手すりになっていて、そこからほとんどふくらはぎ全部が飛び出している2本の足があった。
革靴が上から落ちてきそう。

1本目が終わっても帰る人は誰もいないように見える。

映画上映中も、ホールの途中入退出は頻繁。
その他、シネコンなんかでは聞けない音がひっきりなしに耳に届く。
いつもどこかで誰かが咳をしたり、痰を切ったりしている音。
ときどき、聞こえるあくび。
一時期ずっと携帯のキー音がしていた。

いつも誰かが立ち上がるか歩いている。
映画鑑賞派の人にとってはかなり落ち着かない環境であろー。

おかげで僕も遠慮なく、途中トイレに立ちあがれた。

ホール内をウロウロ歩き回る人もいた。
後ろの通路をいったりきたりして。
後ろの通路だけだからエライと思う。

ずっと席を探している感じの人もいた。
ひょっとしたらいつも自分の座る席に誰かが座っていたのかもしれないなーと、帰るときに思い至る。

映画途中、風呂に入るみたいに鼻歌をうたいながら入場して、真ん中の席に座る人がいる。
これはさすがにびっくりした。

映画終盤には、「雨降ってきた、大雨や」と言いながら、席を探しに入ってくる人もいた。
まあ、そういうこともあるやろ、という感覚である。

もちろん、ちゃんと見てる人は見てる。
僕自身は、内容は興味あったので、全然気にせずにけっこう映画は堪能できた。

用事があったので、お目当てが終わるとすぐに退出した。
人はかなり増えていた。
けれど、映画館から出ていく人は他にいなかった。

映画と映画の間に新聞読んだり、
煙草を吸いに出たり入ったりしながら、
おしゃべりは少ないけれども
数百円で一日中過ごせる
アミューズメントの施設。



――――
見に行った映画
ヴァンパイア映画だからグロもあります。


2013年12月6日金曜日

本「ポイズン・ママ 母一小川真由美との40年戦争

「ポイズンママ 母 小川真由美との40年戦争」

女優小川真由美さんというと「女ねずみ小僧」だとか「積木くずし」の母親役などが有名だ。

だけど僕にとっては、何といっても「八ッ墓村」の「東家のミヤコ」である。

あーおそろしいー。

龍のアギトという洞窟で、タツヤさん(ショーケン)を追い回すミヤコは、僕の中で恐ろしいものベスト3にランクインしている。

そんな印象があったためか、この本に描かれている小川さんの毒母ブリは妙にイメージが合致しているように感じたのであった。
...他人はこんなミーハーな感想で済むけど家族はたまったもんじゃないだろーなとも思う。特にお金のかかる宗教に頼りはじめたらやっかいだろーなー。

けど失礼ながら大爆笑してしまうシーンもあった。
こんな悲惨な話をよく笑えるなーと、自分でも思うが、似たような人を身近で見ていると、「そうそうそう」と思わず突っ込みながら笑ってしまう場合もあるのだ。
すごく空飛で極端な話であると同時に、ある意味ではどこの母娘でも一瞬自分たちを思い起こしそうな娘支配のエピソードが登場する。
笑ってぶっとばすしかない。

攻撃的に書きすぎだという感想もあると思うけど、独立戦争なので仕方ないと僕は思う。

本当に娘がかわいそうだ。特に娘には感情的な抱束が強烈になると思う。
男の子は何だかんだ言って、距離をとるチャンスがある。
異性だから、一生、自分のモデルにして感情的結びつきを強めつづけることができないから。

でも、女優の部分、やっぱちょっとカッコイイと思うところも。やっぱミーハー

2013年10月18日金曜日

本:「秘剣こいわらい」松宮宏

大森望さんの解説を信じ切って、読んでみよう。
面白い。

なんで、こんなこと考え付くんだという感想ばかり。

秘剣コレクターって。
刀集めるだけじゃなくて、隠し剣の再現を集める趣味とは!

で、不世出の現代の剣士が、鴨川で拾った棒で戦う京都女子大生とは!

個人的には、ラストに紹介される法人裏事情のような事件の背景があって、よりよい、まとめ感を得た。

京都女子とか、ほんやら洞とか、祇園の小道とか、出町柳とか、喫茶フランソワとか、京都の馴染みが出てくるので、乗れたのもあるかもしれないけれども、おもしろかった。

2013年10月7日月曜日

本:「ぼくの犬」

「ぼくの犬」(amazon)


タイトルが、シンプルすぎてどんな話なのか予想がつかない絵本だけど、

ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争の話なんですよ。

ぼくの犬ってタイトルは、そのうち、きっとみんなの犬になるからねって、いう希望とメッセージの込められたタイトルなんですよ。

そのメッセージがあるんだって、本当に最後にならないと至らないんだけれどね。


短い本だと思って、声に出して読んでいたら、途中で、ぜんぜん声に出せなくなってしまいましたよ。

絵本なんだけど、深刻につらい。

でも、絵本として物語る。

その大切さを考える本でもありました。





本:「パパはジョニーっていうんだ」ポー・R・ホルムベルイ

ご飯食べながら食堂で読んでて泣きそうになった。

図書館で探して、家でじっくり読んでたら、やっぱ泣きそうになった。

次男に、「こんなんにで泣きそうになんの」と言われた。

息子さんよ、お前もいつかそういう気持ちになるときが来るのさ。



パパはジョニーっていうんだ(amazon)

本:「つまらぬ男と結婚するより一流の男の妾におなり」樋田慶子

つまらぬ男と結婚するより、一流の男の妾におなり

タイトルに惹かれて手に取る。花柳界の女一代記を予感したけれども、交流録というか花柳界そのものを紹介するところがあって、それはそれで面白かった。好みとしては、一代記の方だったが。

写真をみると見たことのある人もいたが、名前を見てすぐに顔が浮かんだのは、宇津井健さんぐらいで、意外と知らない。
タイトルの言葉は祖母の言葉だそうで、やっばり一代記聞いてみたいなと思う。

2013年9月20日金曜日

本:「族長の秋」

「族長の秋」 ガブリエラ・ガルシア=マルケス


やっぱり、文体の感想から書いてしまう。
300ページで6回ぐらいしか改行がない、とレビューしている人がいるくらいだ。
幸い句読点はある。


架空の南米の小国。
独裁政権を築く大統領の話。
物語の文体は語り手の主語がわかりにくい。

作者はそれを意識して書いている。

改行がない、語り手の主語がない。
ひとつづきの段落のなかで、物語の進行は語り手が入り交じる。
会話文としての「」も少ない。


作者は集合意識を書こうとしている、と解説では表現している。
なるほど。
わかるような気もする。
けれども、自分自身の言葉として表現できない。


正直、50ページ過ぎたあたりで先人のレビューから読解のヒントとか、おもしろさを紹介してもらわないともう限界だ、と音をあげはじめた。


この本のおもしろさは、”読むという体験””物語の世界を味わうこと”そのものにあると言えるかもしれない。
そんな言い方しか、できないなあ。
色鮮やかな表現、匂ってきそうな糞だらけの描写、暑苦しい気候。
それらの描写とともに、眩惑するような文章が出てくる。


たとえば、年がいもなく若きマヌエラ・サンチェスの美貌に魅入られた孤独な大統領の様子(だと思う)は、次のようなエピソードの連なりで物語られる。
以下の要約に時制を示す語が出てこないのは、実際に小説中にでてこないからである。


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大統領は美人コンテスト優勝者の美貌の噂を耳にする。
たいしたことはないと思いながら、ワルツの相手をする。
ドミノの勝負の仲間の部下に、
あの程度の女ならごろごろしていると嘯くと、
勝負の途中で乱暴にドアを閉めて出て行く。
大統領は、夜8時の鐘の音を聞く。
皿の食べ物を歩きながら食べ、
屋敷に並ぶ歩哨14名を数え、
愛妾たちの部屋で誰かも気にせずまさぐってから、
屋敷の23個の窓の鍵を調べ、
屋敷の入り口から寝室まで火をつけた牛の糞を5メートルおきに並べ、
寝室から入り口まで電気を消して歩き、
総数48羽の小鳥たちが眠る鳥かごのひとつひとつにカバーをかけ歩き、
鏡に映る自分を14回も眺め、
時刻が10時であることを確認して
護衛たちの寝室へ行き、
もう寝るように指示を出し、
部屋という部屋のテーブル下からカーテン裏まで隠れている者はいないか調べ、
はちみつを2杯なめて横になったが、
お休みという母親の姿が頭に浮かび、
11時の鐘を聞くと、
暗闇の建物をもう一度点検に回る。
回転する灯台の光のなかに、
「星屑のような泥の痕をつけて」歩く中庭を徘徊中のレブラ患者を見つけ、
(注:大統領は英雄としてレブラ患者を治す力があると崇拝されている)
屋敷の歩哨の数をもういちど数え、
寝室にもどると、
寝室の窓からカリブ海を23度ながめ、
12時の鐘を耳にすると、
ヘルニアの恐怖が背筋を這い上がるのを感じ、
「寝室のドアを三個の掛け金、三個の錠前、三個の差し金で」締め切り、
7滴の小便をして、
床にうつ伏せになって、眠りに落ちた。
3時15分に何者かに見られているように感じて、
汗びっしょりになって目覚めると、美人コンテストの優勝者が見ていることがわかる。
大統領はわめいた。
誰か、こいつをひきずりだしてくれ。
廊下をかけまわった。
牛の糞を踏んで歩いた。
もうすぐ8時だというのに、みんな寝てる、どうしたことだ。
あちこちで、明かりがつき、
起床ラッパがなった。
港の要塞でも、
全国の兵営でも。
バラの花が威勢のいい音とともに開く。
ねぼけまなこの愛妾たちは、小鳥のカバーをとり、花瓶の花を取り替える。
左官たちはあわてて壁を作る。
中国人の洗濯屋たちは、大騒ぎで、まだ起きない連中をベッドからひきはがし、シーツをさらう。
先の見える盲人が、「愛を、愛を、とその必要性を」説く。
悪徳役人は、昨日の卵が残っているのに、メンドリが卵を産むのをみた。
混乱した群衆、いがみあう犬のために、閣議の場は騒然としていた。
将校が、大統領を入り口ホールで呼び止め、まだ2時5分だと告げる。
もうひとりが、3時5分だと告げる。
わしが8時だといったら、8時だ、と大統領は言う。
----


紹介、長っ。
どこで切ったらいいのか、決断ができない。
エピソードは一度の段落もなく続く。
ここまでで、ひとつの段落の途中。


物語の内容はイメージ化できるからそういう意味では読みやすい。
むしろ、想像豊かであれば、鮮やかな彩りで思い描けると思う。
また、犬の糞などに代表されるようなユーモラスな描写もある。

いろんなエピソードが印象に残る。
そういう意味で傑作なのだと思う。
たとえば、僕は「宝くじと2000人の子どもたち」の話がバカバカしくって、けど、そら恐ろしくって、大統領に同情などしてはいけない、と考えていた。


宝くじは、大統領がいつも当選するように抽選会で不正が行われていた。
抽選では、子どもたちが中身の見えない袋から数字を書いた玉をとりだす方式。
大統領のくじの番号があたるように、袋の中の玉には印がつけられている。
子どもたちは触ってわかる印のある玉を取り出せばよい。
まもなく、子どもたちからいかさま情報が漏れ出す
そのため、宝くじのたびに、関わった子どもたちを拘束することになる。
その数は約2000人に及ぶ。
子どもたちの親たちが、宝くじのたびに子どもが姿を消すので、暴動をおこす。
実は、この状況を大統領はこんなに多くなるまではっきり自覚してなかった。
部下が勝手にやってたことだ。
国際社会で人権問題としてとりあげられる。
他国からの外交官がといあわせてきたり、民衆がつめかけると、
大統領の腹にヒキガエルがわいている。
大統領の脊椎のイグアナが住み着き、たてがみがあたって頭が痛いなどといって、大統領は仮病を使う。
子どもたちを、アンデス山中の洞窟にかくまったり、水田に埋めて国際連盟の人権委員会の捜査をやりすごした後、
結局、大統領判断で、2000人の子どもたちをセメント船にのっけて、沖で爆破する。


この小説の内容評価をわかりやすく書いているレビューがあったら、どなたかに教えてほしい。

この小説のレビューを書く人は文体のことを書く人が多い。

内容を解説しても、引用される部分が、だいたい100ページ以内が多い。

みんな読むのに苦労したんじゃないかと思う。

2013年9月19日木曜日

一向一揆歴史館に行ってきた6

(前回までのあらすじ)
デンマーク軍で働く弁護士アネ・ドランスホルムの殺害は、過激派によるものではなかった。
軍関係者の連続殺人は、アフガニスタンに派兵されたデンマーク陸軍の謎の兵士による仕業だったのだ!
謎の兵士はアフガニスタン派兵にある闇を葬り去ろうとしている、とサラ・ルンド刑事は睨んでいた。
その矢先、事件はあっさりと真犯人と覚しき通信兵ビラルの爆死という解決を迎える。
事件を執拗に追ってきたルンド刑事は、相棒のストランゲ刑事の安堵をよそに、落ち着かない気持ちで祝杯ムードの警察署内にたたずむ。
あまりに残された謎が多すぎるのだ。
事件の解決を認めようとしないルンドに、ストランゲ刑事は・・・

・・・ルンドの着っぱなしのセーターいいね!と思ってたら、ヨーロッパではやっぱりバカ売れなんだそうだ。
日本円では三万もするよ!
高いよ!

■6
ケガレと清めの文化と社会階層

中世に登場する非人について、網野は、こうした人々の職能性に注目する。
非人には当時、職能としての「清め」の役割が認められていた。

この網野論に対し、真正面から反論している議論を読んでいないのだが、そのようにまずは押さえておきたいと思う。


ところで、清めは、穢れに対する概念である。

穢れと祟りは、日本の宗教性・文化性の根幹を成す感覚だろう。

平安期において、天変地異・政変・疫病のはやりのなかで、穢れの感覚は特に貴族社会で強まる。

平安に広まる貴族仏教とは、穢れの「払い」を仏教に期待するものである。


仏教にたずさわる僧は、穢れてはいけなかった。

穢れに近づいてもいけない。

穢れは、仏僧にも伝染すると考えられていた。


当時の穢れには、以下のような現象が相当した。
死・病・産・土地などの大きな移動(cf地鎮祭)・火事など。


当時の仏・法・僧は国家からの管理も受けていた。
免許制の僧だ。

僧には免税などの特権もあった。

なので免許外の非公認の僧も現れた。
税金・雑役逃れに勝手に僧になってしまう。

法師というのに、そういう人たちがいたそうな。

俗を捨てることにもなるので、こつじきに身を窶すことにもなる。
それで、こつじきは、賤しきものと同時に聖なるものという両義性を持つことになる。


死は穢れの代表的な事例。

僧も触れない。

穢れを清め、粛々と作業を進める人たちを必要とした。
網野は、清める力を持つものだととらえた。

人外の力を持つもの。
他のものとは違う力を持つもの。

非人・河原者などである。

2013年9月13日金曜日

滋賀県平和祈念館に行ってきた

意外に遠い。









2012年3月に会館したまだ新しい資料館。
1984年に話が持ち上がり、1991年には具体化した平和記念館なのだそうである。
県内の各種平和教育のサポートも行ってくれる。


子どもたちが見てわかりやすく面白くみられるように展示されていた。
当日も、事務作業のコーナーで、イラストで描かれた昔の女性の等身大看板を制作していた。

バーチャル資料館としてweb上で多種多様な資料が紹介されている。
その中の一部がゆったりを展示されているという印象である。
子どもだけでなく、大人も昔の部屋・生活道具や衣類・食事の実際の展示などがあるので、楽しめる。


基本展示は、滋賀の戦時下の施設ー産業ー生活。
滋賀県内にあんなにたくさん軍事用の空港があったのか、ということや、
比叡山にケーブルつけて、砲台を作っていたとか、
施設跡ははじめて知ったものがあって、面白かった。


今回の企画展示は、集団疎開の児童の話。
充実していた。
当時、大坂から1万人以上の子どもたちが滋賀に集団疎開してきていた。
当時の写真も多く、引率の先生のノート記録やはがきまである。


もっとも目をひいたのは、
当時の子どもたちの書いた絵日記!
まるまる1冊、閲覧できるようになっている!
3冊はあった。
初等科2年生の絵日記は絵も文章も非常に達者なのだった!
4年生のもさすがの日記なのである。
ちゃんと敬語で、「おっしゃっておられた」とか丁寧に書いている。
先生、行ってきます、と、大坂の学校を電車で出発するところからはじまっている。
先生がこれからは日記をつけておきなさい、と言われたそうな。


今回の目当ては、収蔵展示になっていた、戦争体験の聞き取りだった。
県下にお住まいの人々の戦争体験の聞き取りは、1993年から続けているという。
およそ1300人になる、という(多分、そう書いてあった)。
1300人!すご!


戦争体験聞き取りは、以前に企画展示されたらしい。
そのときの案内をまとめた資料があった。

資料には、どのようにインタビューされたのかの手順も書いている。

あとがきのような文章で、調査員の方がインタビューにあたって、自分が工夫してきたことを書いている。
昔の体験は、はじめてあった人にそう簡単に話せるものでもありませんし、すぐに思い出せるものでもありません。
そんなとき、昔の生活道具などを目の前において話をすると反対に話が尽きないことがあります、など。
聞き取りについての考察が面白い。


聞き取られた戦争体験は、「湖の記憶」というタイトルの冊子にまとめられている。
一人一人の戦争体験が実名で登場する。
男性と女性では、やっぱり女性の語りの方が具体性や生活感があって、想像しやすい。

第1巻と2巻は、もう在庫なし。
最新の9巻は、有料販売中。


巻ごとにテーマがある。
ぱらぱら読んでいて、すさまじかったのは、9巻の満州編である。
特に、女性の話が、文字でみるとさらっとすごい話が書いてある。


これ、実名なのかな。
よくしゃべってくれたなーと思う。
もう、昔の話とはいえ。
インタビュアーが良かったんだろうな。

さっき見た、聞き取り企画展示の資料には、聞き取りを文字興ししたあと、本人確認している、って紹介してあった。

2013年9月11日水曜日

水平社博物館に行ってきた



(社会)運動論に関する理解は、限りなく脆弱なので原点を確認に行った。











展示は、戦後の解放運動までの内容で占めている。
その後のことを展示するとなると、いろいろもめそうですが・・・

小さいながらも当時の状況を想像させるような仕掛けがあって楽しめた。
タイムトラベル物語として、水平社結成大会に参加するという映像は、みんな面白いと思うだろうな。

大坂の人権博物館と展示内装が似ているような気がしたが、博物館ってどこもあんなものだったけ?



どこかで見たような気もしたけれども、あらためて阪本清一郎さんのインタビューなどを映像で見れてよかった。

差別の「糾弾」という、はじめて接する人がほとんど引いてしまう単語を、どのような意味でとらえていて、なぜ採用したのかを語っていた。

年輪を重ねて振り返った言葉かもしれないけれども、あー、やはり、そのような意味合いでもあるのかー、と腑に落ちることができた。
攻撃的で、叩き潰すような印象の言葉だが、糾弾の糾の意味を強調していた。

西光万吉さんによる、水平社宣言の文言への振り返りも面白い。

京都の工場勤めで暮らしてた宿舎の物干しで、ゆっくり考えていた、とか。
あれは、ちょっと宗教じみた神秘的な言葉づかいやった、とか。

やっぱりそう思うよなー。
それゆえ、感動的でもあるのだけれど。











水平社運動のはじまるこの土地はそもそもどういう性格をもった地域であったのか、という歴史もあらためて確認した次第。

古代において、神武天皇領からすると丑寅の方角に位置し、鬼門の清めの役を担っていた集落なのではないか、というのが発祥の話に出てくる。

古文書では、「草葉」と称される広い耕作地帯の弊牛馬の処理を権利としてまかされたことがわかっている。

そこから、膠の産業が発達してきた地で、明治に入ってこの産業の需要は高まったという。

2013年9月10日火曜日

京都市学校歴史博物館に行ってきた


昔の学校の写真や、教科書など教具の展示が、超 面白かったー。

ちょっと、学芸員の方と話していたら、「大学生ですか?」と聞かれたのが、いちばんの驚きであった。
いくら暗がりとはいえ。


博物館は、開智小学校を改築したものである。
お寺のような門を入る。
敷地内に校舎がある。となりの校舎みたいなのは保育園である。


京都の小学校は、明治2年に始まる。
それも、町衆たちの手によるもの。
洛中の「組」組織の変更とともに、「番」組組織へと自治体の再編成が行われた。
番組に一つずつ、小学校が設置された。
ということだから、京都の洛中を挙げての大事業であった。
なかには、800両もの借金をした場合もあった。

そうなのかー。


なぜ、町衆の手による小学校の整備なのか?

天皇とそれにまつわる人々の、明治2年の東京への大移動があった。
町おこしとして小学校事業がとらえられていた。


文部省により開始される小学校は、明治5年。
学制に先んじて行われた京都の小学校の特色は?

●市役所、警察署、消防署が校舎の中にあった場合あり。
実際に学校の屋根に火の見櫓みたいなものがあった。

●読み物の底本は、石田梅岩にはじまる石門心学であった。

●授業に日本画というのがあった!
実際の生徒が書いた絵というものも展示されていた。
墨絵である。


昔の教科書が展示してある。
戦後すぐの「墨ぬり」の教科書も、はじめて実物を見た。

なかでも明治初年や大正の「読本」とか「修身書」がおもしろい。
実物の1.9倍大に復刻したものを実際に読めるように展示している。

その他、教科書で個人的に印象に残ったこと。
●明治初年の文部省お達しの教科書は、啓蒙的であった。
科学的である・・・は知っていたが、
修身の内容に、衛生学の知識が盛り込まれ、衛生ー身だしなみについて述べられていることが教科書で確認できた。
おもしろい展示は、女学生と警鐘(メザマシドケイ)のエピソードを記述している教科書の展示だった。
ある女学生は、警鐘(メザマシドケイ)を使うことで、きちんと起きて生活する習慣ができるようになった。

そのほか、「ウシ ガ イマス」など、「読本」は読み出したら、止まらないね。


教科書以外にその他、印象に残ったこと。

●明治11年には、盲唖の学校が開かれ、カリキュラムも組まれている。
京都、早い。

●学校給食は、昭和3年にすでに食に困る子どもたちに向けて始めている。
戦局が厳しくなる19年あたりまで、続けていた模様。

2013年9月4日水曜日

「一向一揆歴史館」に行ってきたの巻の5

(前回までのあらすじ)
MI5のチーフ、ルーカス・ノースは実はルーカス本人ではなかった!
イングランドへの数々のテロ・破壊計画を阻止してきた英雄的諜報員ルーカスは、実はジョン・なんたらという人物であった!
実際のルーカス・ノースはMI5入局直前にジョンの手によって殺害されていた。
しかも、ジョンは15年前、ダカールで起きたイギリス大使館爆破テロの実行犯だったのである!
そんなジョンなんたらが、ルーカスとなって命をかけてテロの脅威から祖国を守りつづけてきたのである。
しかし、ジョンの正体を知る昔の仲間マイケルが、MI5の最高機密文書アルバニー・ファイルを盗み出すようルーカスに迫ってきた!

ルーカス!!お前は何をしたいんだ!!よくわからん奴だ。

・・・ぜんぜん違う番組のあらすじを振り返った。orz.


このブログネタ、どこまで続くのかわからん。
だらだらしたノートを書いている。
「一向一揆歴史館」の話にたどり着けない。


今日のタイトルは「中世の非人」って感じ

■ 
1465年 寛正の法難
比叡山による、本願寺攻めがはじまる。
比叡山西塔の下、祇園社の犬神人や坂本の馬借らによる攻撃がはじまったという。
蓮如は近江の金森・赤野井・堅田の門徒に助けられる。
比叡山衆徒に落ちた京都大谷の本願寺坊社は、祇園社犬神人に与えられたという。
これに対し、近江の一向衆門徒たちが反乱を起こす。
近江の一向一揆である。


本願寺に乗り込んだ「馬借」は、正長の一揆、もっとも早い民衆の一揆で活躍した人々としてすでに名前が出てきた。
馬借とは、どんな人々か。
文字を見ての想像でおおよそ見当がつく。
馬を使って、運搬・輸送の仕事をする人々である。
比叡山のお膝元では、戦いに駆り出されることもあった。

文献では11世紀半ばくらいから登場するらしい。

近江では坂本の他、大津・草津の記録がある。
山城だと、鳥羽・横大路・伏見・木津・山崎・淀。
大和では、生駒とか八木とか鳥見あたりに集まっていたらしい。


馬を使う・・・という点はちょっと気になる。
少しだけ文献にあたってみたが、きちんと説明されているものに出会えない。
馬借は当時の一般的な就労か被差別の者であったかという社会的ポジションが気になる。
経済・流通の発達途上の時代だから一般的な仕事だと思う。
しかし、馬を使うという点でちょっとひっかかる。
仕事としての成功者であり被差別の対象である、という両方の特徴を持つこともありうる。
そのような疑問が浮かぶのは、馬借と並び紹介されている犬神人は中世の非人として知られているからである。


中世の歴史には、非人とエタが登場する。

「惣」という地域社会が構成されつつある時代、政治・経済・社会的に組織化された共同体が姿を見せ始めた時代に、共同体には受け入れてもらえないものの存在が文献に登場する。

11世紀後半には、「非人の長吏」という言葉が文献に出てくるという。
非人はそのころにすでに組織的集団となっていたと見られている。


非人として知られる人々にはいろんな種類の人間たちが含まれていた。
「こつじき」として物乞いをする者、葬送や清掃に関わるもの、芸能・祝い事の供与で生活する者たちがいた。
それらは、坂の者、犬神人、濫僧などと呼ばれていた。
下級の神官だったり、犬神人は弓の制作を行う場合もあった。


神官が賤民身分という説明は、現代からはわかりにくい部分もある。
こつじきも、現代の視点から一義的にとらえられない。
こつじきは、仏教の広まりのなかで手を合わせる対象となり、存在が仏として考えられる場合もあった。
仏道に入ることは、一切の世俗から離れることであれば、こつじきのような仏僧も想像に難しくはない。
聖なるものへの視線と賤なるものと見下す視線のアンビバレントな関係は後にまわす。


非人にはさまざまなタイプがあった。
よく知られているのは「悲田院」に身を寄せる人々である。
(悲田院とは・・・もう略す)
生活できなくなった身よりのない病人や年寄りがいた。
よく知られているのは、癩病を患った人々である。
体力のないものばかりでない。
京で疫病が流行った頃に、鴨川付近で亡くなった人々の遺体処理に駆り出されたという記録がある。
悲田院の人々は、死体や遺品の処理をしたり、葬送に関わっていたと考えられている。

このポイントを、ケガレを清める仕事、と網野善彦氏は言う。


網野(以下、敬称を略す)は、非人と呼ばれる人々の役割を職能としての「穢れの清め」という観点から分析している。
死穢のキヨメ、罪穢のキヨメ、産穢のキヨメ。

死穢でのキヨメの仕事とは、葬送での遺体の移動。輿の管理。
死者に贈るもの、ともに葬るものの管理・処理である

死刑に携わる「放免」という非人があった。
罪と死というふたつのケガレを担当する人たち。
犬神人・放免による罪人宅の破壊や焼却まで行われていた。
親鸞弾圧の折りには、法然の墓所も犬神人によって破却されたという絵巻物がある。
墓所は、弾圧側に災いをもたらすーケガレであり、その後のタタリを警戒するためと言ってよいだろう。

その他、非人・河原者は出産時の胞衣の処理を行ったという。


穢れや清めの感覚の分析は、日本における仏教の展開と強い関連がある。
日本の仏教は、中世において貴族仏教から民衆仏教へと大きく飛躍した、と言われている。
一部の特権階級の人々の仏教から、衆生のものへと展開した。

上層の貴族社会ではケガレータタリに敏感な文化が成長していた。
貴族仏教と言われる仏教は、ケガレを取り払い、タタリを回避する意味を持っていた。


別の側面から言えば、仏教に携わる僧侶も状況によりケガレることもあった。
また、僧侶はケガレてはいけないという意識も高かった。
当時の僧侶は葬送には関わらなかった。
死穢に触れることになるから。

政情不安、天変地異、疫病の流行などを背景に、貴族社会のケガレへの敏感度が増す。
ケガレを払う力としての仏教が求められる。
ケガレを清らかにする”職能”集団として特殊な人々が認識される。
一方で、ケガレを払い、清らかな世界へ生まれる・・・”浄土への往生”という救いとしての仏教が受け入れられ・求められていくようになる。

そして浄土思想は、すべての衆生に救いをもたらされるという点において民衆にも広まる。
ケガレを越えて民衆の葬送への関わりもはじまる

>眠。

2013年9月1日日曜日

「一向一揆歴史館」に行ってきたの巻の4


(承前)
近江には、蓮如の父・存如の頃からすでにお念仏の信仰は広まっていた。
湖北の長浜・彦根、湖西の堅田では門徒が大きな力を持っていた。
近江全域の門徒を組織化したのが蓮如と言われる。
太閤検地時の史料では、近江は当時六六ケ国の中で、第二位の生産力を誇っていた。
堅田はその交通の要衝としてにぎわいを見せていた。


堅田・本福寺は一帯の門徒の中心であった。
三世の法住の折りに、研屋・道円、麹屋・太郎衛門とともに、大谷・本願寺の六世・巧如に帰依したといわれている。
1460年に連如は、法住に十字の名号を下付している。

穀倉地帯である金森(守山市)には、お念仏の道場として金森道場があった。
第七世・存如に帰依した道西坊善従が、連如が得度した1431年に建立した。
金森をたびたび訪問する連如は、1461年には御文章を道西に授与したという。

穀倉地帯であり、交通の要所である赤野井にも、1464年、惣門徒の本尊として、宗祖の御影や「四幅の御絵伝」を授与されている。


しかし、近江と言えば、比叡山の影響強い坂本がある。
堅田門徒による本願寺派の普及と、比叡山との確執がはじまったのではないかと言われている。
実際に、法住の本福寺へあてた文書には、「再興への嫉視を招いたものによる」と記されている。


1465年 寛正の法難
比叡山による、本願寺攻めがはじまる。
具体的には、比叡山西塔下、祇園社の犬神人や坂本の馬借らによる攻撃がはじまったという。
蓮如は近江の金森・赤野井・堅田の門徒に助けられる。
京都大谷の本願寺坊社は、祇園社犬神人に与えられたという。

2013年8月31日土曜日

本:「唐人殺し」の世界ー近世民衆の朝鮮認識

「唐人殺し」の世界ー近世民衆の朝鮮認識 池内敏
臨川書房 1999


本の整理に使っているwebサービス「BOOKLOG」では、この本のサブタイトルが表示されない。
タイトルのみ。
”「唐人殺し」の世界”とだけ表示される。
まるで闇世界のノンフィクション本のように見えるなぁ。

これは、由緒正しい立派な歴史の学術書である。
古文書を緻密に読み解いている。

ただし、内容はまるで警察小説、政治小説なみである。
好みによると思うが。
古文書資料部分について、現代文で表記してくれるので読みやすいので助かる。

立ち読みしてたら、面白くて家に持ち帰って一気に読んでしまった。


1764年4月6日、朝鮮人・崔天宗が宿泊先の西本願寺津村別院にて殺害された。
何者かに喉を一閃、掻き切られたようである。
仲間の通信使団の見守るなか、多量の失血により翌朝までに死に至った。

崔天宗は、朝鮮王朝より派遣された朝鮮通信使団の中官の一人である。
今回の来日は、第10代徳川将軍家治の襲職の祝いへの参加のためであった。


朝鮮通信使側は、三名の上々官を中心に声明文を作成し、迅速な罪人への対応を大坂町奉行所に伝達・要請した。
現場には残された犯行に使われた凶器の情報とともに。
凶器は、「魚永」と刻印された日本製の短刀であった。


通信使の要請に対し、大坂町奉行所の動きは鈍かった。
大坂町奉行所は、外交通使訪問中の殺人事件という特殊案件に消極的だった。
朝鮮通信使に対応する日本の窓口は対馬藩である。
事件は対馬藩にて処理せよ。
対処できないのであれば、相談に乗る。
大坂町奉行所の姿勢は積極的とは言えなかった。


対馬藩の動きも鈍い。
事件担当が決まり、検分した当初、殺害について意見は割れていた。
倹使となった対馬藩目付桜木は、崔天宗の死を自殺と推察した。
直前に朝鮮使同士でのいさかいごとがあったということが先入観になっていたかもしれない。
一方、検分に同道した大石伝十郎は、件の日本刀の情報から、他殺、それも犯人は日本人という見立てをしていた。
藩の見解としては、自殺の線で事件を処理しようとしていた。


幕府は、対馬藩に通信使の帰国の便を計るように伝えた。
帰国が引き延ばされるのは、問題が大きくなり、よろしくない。
瑕疵のないように送り届けるように。
対馬藩は、これを拒否。
事件の解決もみないのに、簡単には返せない。
それどころではなかった。


通信使側は、殺害した罪人の処分を確認しない限りは帰国はできないという姿勢である。
本国に帰って説明もできない。
いったい、日本側は何をしているのか。
殺害した犯人を一刻も早くとらえ、刑に処せよ。
命を奪うものは、命によって代償するべきである。


そのころ、対馬藩ではひとつの噂が広まろうとしていた。
事件をうけて召集をかけられた通詞のうち、鈴木伝蔵だけがいつまでたっても姿を現さなかった。
4月13日、ようやく伝蔵の家来が主人の書簡を藩に届ける。
書簡の内容では、伝蔵による殺害の自白が認められた。
伝蔵捕縛のため、日本側が動きはじめる。


伝蔵の足取りを追うなか、伝蔵を匿った人物が特定される。
最初は事件なんて知らなかったと証言したが、実は、伝蔵逃亡のためのア
リバイ工作だとわかる・・・
4月18日、伝蔵、捕縛。


崔天宗殺害に対馬藩内部の人間が関わている。
消極的だった大坂城代は、江戸の命を受け事件解明に動きだす。
対馬藩を通さず直接に通信使と書簡による連絡をとりはじめた。
対馬藩は、正式な筋を通さず「脇筋」から朝鮮とやりとりをするものとして不快感を示す。
幕府からの直接の文書内容を通信使より内密に伝え聞き、大坂城代との駆け引きの末、事件解明の主導権を確保する。
大坂城代の事件への審議は、対馬藩に書簡による問い合わせという形に収まる。


鈴木伝蔵の自供によれば、事件は以下のような顛末で起こった。

朝鮮通信使が長浜に到着したとき、一騒動がもちあがった。
ある下官の荷物の中の鏡がなくなったという。
通信使は運搬に関わった加子があやしいと睨んでいた。
この騒動に対処したのが、通詞鈴木伝蔵であった。
午前に起こったにわかに起こったこの騒動は、午後には、御堂宿所において、崔天宗と伝蔵との口論に発展した。
伝蔵の供述によれば、崔天宗から日本を辱める言があった。
さらに、口論の末、伝蔵は衆人環視のなかで崔天宗から打擲されたという。
その辱めをただすため、深夜に打ち果たしたというのである。


伝蔵によれば、朝鮮通信使側に顔を見られた覚えがある。
しかしながら、犯人を名指ししないのは、知らぬふりをして出勤のおりになぶりものにするつもりである。
だから大坂に逃げたということである。


また、崔天宗を討った伝蔵は、多少の正統性を主張する。
崔は、日本を辱めた。
対馬藩では、辱めを受けた場合、通信使を討ち取るべし、という上からの教えがある。
殺害には正統性があるのだ。
しかし、事の詳細はあいまいなまま、4月29日、伝蔵は死罪を言い渡される。
死罪は既定路線であるかのようだった。


著者の池内氏によれば、
日本をはずかしめる言動があったかどうか、
対馬藩に辱めに対する掟があったかどうか
幕府は最終的な詰めは行わず、処罰が優先された。
むしろ積極的に立証する気はなかったというのが、本書の分析である。

一方、朝鮮通信使側からすれば、犯人は日本人と決まっている。
速やかに犯人を差し出されなければ、両国の関係に問題を生じる。
対応は迅速に行われるはずである。
ところが、遅々として進まぬ事態にストレスは増すばかりである。

朝鮮との関係を考慮した幕府は、厳しい処罰で誠意を示そうとしていたフシがある。
事件関係者は厳しく処罰された。


対馬藩としては、事件は不慮のできごとである。
幕府としては、事態の管理責任を対馬藩にただす必要がある。
事件の解明により、伝蔵は通詞のとりきめである津村別院での通信使との同宿をしていないことがわかった。
対馬藩にはそもそもの管理責任がある。
事件をめぐり、日本の統治機構内部において、中央と地方とのイニシアチブをめぐる駆け引きが起こる。


両国の関係を考慮しての駆け引きがこの事件にまつわる人々に様々な影響を与える。
通信使たちは、帰国後、事件解明が長期化したことの責を追及される。
日本では対馬藩家老以下19名の責が問われ処罰され、朝鮮では通信使の事態収拾への責が問われる。
管理能力を問われる問題になる。

他方、対馬藩からは、朝鮮文化と日本文化の違いから、伝蔵の行為を擁護する見解もとびだしてくる。
朝鮮文化では打擲は日常だが、日本では名誉が問題視される。
衆人環視のもとでの打擲では、伝蔵の気持ちもさもあらんという同情論をベースとした、朝鮮側の日本無理解に批判的な意見である。
朝鮮と日本の相互理解の困難さをベースに議論しながら、朝鮮に対する幕府の態度を批判的にとらえながら、他方で、朝鮮事情を理解しうるのは対馬であるという自負が現れる議論である、と著者はいう。

事件は、個人的な感情のもつれ、思いの行き違い、相互の不信感がつのるなか、国家体制からは両国において担当機関の管理能力の問題として処理されていく。
その意味で事件はやがて封殺されるべき運命にあった。

しかしながら、人々の思いは風聞として伝わっていく。
風聞故の歪みを伴いながら。
本書のもうひとつの試みは、風聞がやがて文芸の作品として定着する過程を分析することにある。
定着の中で、明らかにされなかった両国の関係から、対外認識の歪みを固着させるーその発生の道筋の分析を行うーーー興味深い研究である。