2009年1月18日日曜日

宝塚行ってきました(その3)

前回の記事の説明から・・・

写真は、清荒神駅前の商店街。
1・2軒隣に行くと、清荒神市場というアーケードになった路地のような入り口もある。
路地の中はシャッターの閉まった店ばかりだったけど・・・

前回の記事で、最後の文献紹介で、”小林一三の先見の明”やら”音楽文化””生活文化”としてタカラヅカなどという言葉を使っていたけれども、実際に、渉猟した文献ではタカラヅカというとなんといっても小林氏の功績だった。そしてアイデアの見事さ。
少し、現代的な文献では、これまでのタカラヅカの歴史をふりかえり、大衆文化・音楽文化・生活文化としての少女歌劇の特色や、それが文化に与えた影響などを考察していた。

新書版や随想風なもので、タカラヅカの文化論を紹介するものもいくつかあったが、
以下のものは、文化としての議論を考えた場合、読みがいのありそうな文献。

津金澤聰廣・近藤久美(編)『近代日本の音楽文化とタカラヅカ』世界思想社
袴田麻祐子「少女による歌劇から少女のための歌劇へ」や
全国に乱立した、金沢にも出来たという栗ケ崎浜遊園の少女歌劇の紹介・・・

オペラではない、大衆の音楽文化としての少女歌劇の様子が小林一三の意図もあわせて紹介されていて、面白そうだった(執筆者の方は社会学を背景としている)。

渡辺裕1999『宝塚歌劇の変容と日本近代』新書館

では、小林一三の戦略から詳細に紹介しながら、東京-大阪の文化的勢力を背景とした宝塚の少女歌劇の位置づけ、さらに西洋-日本の文化的背景から海外へ渡るタカラヅカの文化的意義などの考察を行っていて、文化論として楽しそう。(続くかも)

宝塚に行ってきました(その2)


南口の市街地開発の真紅の熱い報告書はあった。
同じように宝塚駅周辺の開発事業の報告書が欲しいのだが、的外れな探し方をしたのかそれらしきものを見出せない。
手塚治の記念館についての随想録のようなものはあるが・・・

というわけで、次の大判の資料集をとりあえず見ておこう。

宝塚市、2003 『第4次宝塚市総合計画』

○古墳の多いことから宝の塚と古代から称されたというこの地域では、17世紀には、現在の山本・中筋地域の植木が知られるようになる。現在でも、伝統的な植木産業が伝わる農住地域が残されている。
○中世・近世と交通の要所として栄え、近代では明治20年、温泉が知られるようになる。○大正3年には少女歌劇がはじまる。
○観光の名所としては、その他に中山寺・清荒神清澄寺など、伝統的な寺院がある。
○一方、大正初年には雲雀丘・花屋敷を中心に、昭和初年からは仁川・武庫川を中心に宅地開発が広まる。
○観光人口は平成5年の1200万人をピークに、ここ数年、1000万人と落ち込み気味である。また、観光客の95%は日帰りという調査結果がある。


上記の資料集は総合的に問題を網羅しているのみで詳細は踏み込んでいない。
まちづくりについて、何かないかと思って探していたら、次の文献が目に付いた。


瀬川直子 2006 「歌劇の国のタカラヅカ-都市再生の鍵はその宝の塚にあるのか その1-」 市史研究紀要 たからづか 第22号 宝塚市教育委員会

執筆者はジャーナリストの方らしい。
期待していた現代的な都市環境の変化と阪急駅近辺の開発とタカラヅカとの関連についての言及はあまりない。
やはり小林一三の意図について、つまり、歌劇ができたころの話にページ数が割かれており、郊外に目をつけられたことが紹介されている。
後半に、ようやく音楽文化という生活文化を生み出す「土壌の変化」、つまり地域の変貌について触れられている。
ちゃんと読んでないので、コピーしてきた。(続く)


 

宝塚行ってきました(その1)


報告、遅くなりました。
先日、宝塚チームとともに訪問しました。
中央図書館は、阪急 清荒神駅の目の前にありました。
結局、宝塚駅から線路沿いを目指していたら、すぐに到着しました。

一般開架の図書よりさらに奥まった調査相談室に郷土資料のコーナーがありました。
タカラヅカコーナーだけは、聖光(?)文庫という展示室も兼ねた禁帯出の藝術書とともにありました。
なぜか、タカラヅカとカタカナで書くと、歌劇のことなんだな。
書棚を軽くブラウジングして、目についてちょっと読んだのは次の文献です。


宝塚市、1975 『再開発/宝塚市の記録 宝塚市南口駅市街地再開発事業』

○阪急今津線、宝塚南口駅に隣接している白亜の殿堂サンビオラを中心とした市街地再開発事業の報告書。A5版程度の小ぶりな冊子だが、意外なほどページ数も多く、また紙面に細かな文字がびっしり詰め込まれている。なんといってもその報告内容の充実ぶりに、当時の事業の熱の高さがうかがえる。
○この事業は、温泉・旅行・ファミリーランドなどを含めた広域レクリエーションゾーンである宝塚の中心であり窓口である南口駅市街地の活性化を求めて取り組まれた。1970年代の事業である。事業計画は駅周辺の市場・商店を整理し、店舗140軒・住宅102世帯を3棟のビル(サンビオラ)に納めるものだ。事業により、駅前はロータリー化され近代的な装いが整えられた。
○この報告書の熱の入りようは、以下の記事群からもうかがえる。
・大上清、再開発事業課長による昭和46年7月1日~昭和48年6月までの詳細の作業日記
・登記書の登録の条件設定や書式の詳しい解説
・昭和42年9月30日からの地区住民答申案説明会(於:宝塚第一小学校)からはじまるびっしりと連ねられた活動記録
・事業の過労のために亡くなられた課長(戸田氏)の追悼回想録
・事業全体の回顧録のための座談会を紙上公開

充実した報告書です。(次の記事へ続く)