2015年5月6日水曜日

ユカワハルナさんという青春

これも、かなり前の日記の下書きから。
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”湯川さん”を検索しているのだけどネットに頼るとニュース記事以外は、一方的にディスる発言ばっかりひっかかって、辟易した、という話。
情報を探すの大変。
 湯川さん的な青春を、ちょっと考えようとしたので、探したんだけど。

”後藤さん”をネットでディスる(というより何故か怒っている)のも目だつ気もがするけど、
いろいろな角度からの意見が出ていて、こちらは落ち着く。

ジャーナリスト、ジャーナリズムのあり方を議論するのが多いかな。
これは報道の理論である。

後藤さんの親が反原発なので阿部総理が直接名前を出して哀悼の言葉を述べないという細かい記事もある。
 こういう面から、政府のあり方を議論するパターンも多い。
 これは報道と権力の議論である。

それにしても湯川さんという人物を記録する記事が見つけられない。
そういえば、支援してたという元議員さんがTVに出てたな。
何をどう、なんで支援しようと考えたのかな。

湯川さんという人生(青春)はある意味とても現代的な生き方に感じるんだけど、後藤さんに比べると圧倒的に情報が少ない。

事件後の湯川さんへの周囲の反応(無視・ディスる・哀悼少な目)も現代的・日本的だと思うし。
 
誰かが取り上げてそうな気がするのだけど……小説・映画などではとりあげるかな…

この、他人の情報待ちな自分がいけないのか。

(映)「ある精肉店のはなし」

もう、丸々1年前に書いた日記。
映画「ある精肉店のはなし」のはなし。
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貝塚市にある精肉店。
家族で続けてこられた屠畜・精肉・販売業。
映画は屠畜の様子からはじまり、
精肉を中心とした家族の営み、
地域の生活文化が淡々と、
ときおり本人のインタビューをまじえながら、
美しい映像で描き出している。

一日だけだけど、見学させてもらって話を聞いたところが映画になったのははじめてなので、不思議な体験だった。
文字通り身を乗り出して見てしまった。

家の裏の牛舎から市営屠畜場まで
くねくねとした生活道路をけっこう歩く。
カメラがその様子を映すために先回りしたり、どこかの屋上から俯瞰でとらえたりすると、事前確認がないと、こんなふうな絵にはならないようなーとか、なぜかそんなことが気になる。

屠畜や太鼓づくり、移動精肉屋、盆踊りのシーンでも
椅子から身を乗り出した。
家族の生活にかなり入り込んでいることで、生き生きとした暮らしの一面がとらえられていた。

一方で、変な違和感もかなり残った。
違和感というか、気恥ずかしさというか、ふと考え込んでしまう。
最初の違和感は、インタビュアーの声が入ってくるところだった。
ナレーションの声と同じだったので、おそらく監督の聞き取りだろう。
でも、声だけが登場し、画面は話している語り手だけだ。
1人語りにするか、2人対話にするか、どっちかを意識するのが、自分自身のひっかかりだったと思う。
そして、それよりもインタビュアーの(おそらく)若い女性の声が入ると、何故かすごく恥ずかしく感じるのだった。
なぜだろう。


また、インタビューシーンでは、他にも細かいつっこみを入れて独り言を言いそうになった。
こんなのは、映画見ていてはじめてだ。

おばあさんの語りについて、それしか使うとこなかったん?とか。
もっといろいろしゃべりそうなのに…とのど元まで声になりかかっていた。

たしかに表情豊かでご本人らしさが出ている映像なんだろうなーと感じたけれど、
もっといろんな語りがありそうな人だよなーと感じていた。
昭さんも「思い」の語りを使いすぎちゃうやろか、という別の違和感。
なんていうんでしょう。
・・・解放運動のストーリーのような、ある定式化した物語にのっかかったような、「思い」の語り方が、出てきているように思えた。
話しなれているせいなのかな。

・・・うーん、ブログで書いてたら、また、ごちゃごちゃ考え始めた
・・・とりとめなく、考え始めたので、この日記はここで終わります。