2013年9月4日水曜日

「一向一揆歴史館」に行ってきたの巻の5

(前回までのあらすじ)
MI5のチーフ、ルーカス・ノースは実はルーカス本人ではなかった!
イングランドへの数々のテロ・破壊計画を阻止してきた英雄的諜報員ルーカスは、実はジョン・なんたらという人物であった!
実際のルーカス・ノースはMI5入局直前にジョンの手によって殺害されていた。
しかも、ジョンは15年前、ダカールで起きたイギリス大使館爆破テロの実行犯だったのである!
そんなジョンなんたらが、ルーカスとなって命をかけてテロの脅威から祖国を守りつづけてきたのである。
しかし、ジョンの正体を知る昔の仲間マイケルが、MI5の最高機密文書アルバニー・ファイルを盗み出すようルーカスに迫ってきた!

ルーカス!!お前は何をしたいんだ!!よくわからん奴だ。

・・・ぜんぜん違う番組のあらすじを振り返った。orz.


このブログネタ、どこまで続くのかわからん。
だらだらしたノートを書いている。
「一向一揆歴史館」の話にたどり着けない。


今日のタイトルは「中世の非人」って感じ

■ 
1465年 寛正の法難
比叡山による、本願寺攻めがはじまる。
比叡山西塔の下、祇園社の犬神人や坂本の馬借らによる攻撃がはじまったという。
蓮如は近江の金森・赤野井・堅田の門徒に助けられる。
比叡山衆徒に落ちた京都大谷の本願寺坊社は、祇園社犬神人に与えられたという。
これに対し、近江の一向衆門徒たちが反乱を起こす。
近江の一向一揆である。


本願寺に乗り込んだ「馬借」は、正長の一揆、もっとも早い民衆の一揆で活躍した人々としてすでに名前が出てきた。
馬借とは、どんな人々か。
文字を見ての想像でおおよそ見当がつく。
馬を使って、運搬・輸送の仕事をする人々である。
比叡山のお膝元では、戦いに駆り出されることもあった。

文献では11世紀半ばくらいから登場するらしい。

近江では坂本の他、大津・草津の記録がある。
山城だと、鳥羽・横大路・伏見・木津・山崎・淀。
大和では、生駒とか八木とか鳥見あたりに集まっていたらしい。


馬を使う・・・という点はちょっと気になる。
少しだけ文献にあたってみたが、きちんと説明されているものに出会えない。
馬借は当時の一般的な就労か被差別の者であったかという社会的ポジションが気になる。
経済・流通の発達途上の時代だから一般的な仕事だと思う。
しかし、馬を使うという点でちょっとひっかかる。
仕事としての成功者であり被差別の対象である、という両方の特徴を持つこともありうる。
そのような疑問が浮かぶのは、馬借と並び紹介されている犬神人は中世の非人として知られているからである。


中世の歴史には、非人とエタが登場する。

「惣」という地域社会が構成されつつある時代、政治・経済・社会的に組織化された共同体が姿を見せ始めた時代に、共同体には受け入れてもらえないものの存在が文献に登場する。

11世紀後半には、「非人の長吏」という言葉が文献に出てくるという。
非人はそのころにすでに組織的集団となっていたと見られている。


非人として知られる人々にはいろんな種類の人間たちが含まれていた。
「こつじき」として物乞いをする者、葬送や清掃に関わるもの、芸能・祝い事の供与で生活する者たちがいた。
それらは、坂の者、犬神人、濫僧などと呼ばれていた。
下級の神官だったり、犬神人は弓の制作を行う場合もあった。


神官が賤民身分という説明は、現代からはわかりにくい部分もある。
こつじきも、現代の視点から一義的にとらえられない。
こつじきは、仏教の広まりのなかで手を合わせる対象となり、存在が仏として考えられる場合もあった。
仏道に入ることは、一切の世俗から離れることであれば、こつじきのような仏僧も想像に難しくはない。
聖なるものへの視線と賤なるものと見下す視線のアンビバレントな関係は後にまわす。


非人にはさまざまなタイプがあった。
よく知られているのは「悲田院」に身を寄せる人々である。
(悲田院とは・・・もう略す)
生活できなくなった身よりのない病人や年寄りがいた。
よく知られているのは、癩病を患った人々である。
体力のないものばかりでない。
京で疫病が流行った頃に、鴨川付近で亡くなった人々の遺体処理に駆り出されたという記録がある。
悲田院の人々は、死体や遺品の処理をしたり、葬送に関わっていたと考えられている。

このポイントを、ケガレを清める仕事、と網野善彦氏は言う。


網野(以下、敬称を略す)は、非人と呼ばれる人々の役割を職能としての「穢れの清め」という観点から分析している。
死穢のキヨメ、罪穢のキヨメ、産穢のキヨメ。

死穢でのキヨメの仕事とは、葬送での遺体の移動。輿の管理。
死者に贈るもの、ともに葬るものの管理・処理である

死刑に携わる「放免」という非人があった。
罪と死というふたつのケガレを担当する人たち。
犬神人・放免による罪人宅の破壊や焼却まで行われていた。
親鸞弾圧の折りには、法然の墓所も犬神人によって破却されたという絵巻物がある。
墓所は、弾圧側に災いをもたらすーケガレであり、その後のタタリを警戒するためと言ってよいだろう。

その他、非人・河原者は出産時の胞衣の処理を行ったという。


穢れや清めの感覚の分析は、日本における仏教の展開と強い関連がある。
日本の仏教は、中世において貴族仏教から民衆仏教へと大きく飛躍した、と言われている。
一部の特権階級の人々の仏教から、衆生のものへと展開した。

上層の貴族社会ではケガレータタリに敏感な文化が成長していた。
貴族仏教と言われる仏教は、ケガレを取り払い、タタリを回避する意味を持っていた。


別の側面から言えば、仏教に携わる僧侶も状況によりケガレることもあった。
また、僧侶はケガレてはいけないという意識も高かった。
当時の僧侶は葬送には関わらなかった。
死穢に触れることになるから。

政情不安、天変地異、疫病の流行などを背景に、貴族社会のケガレへの敏感度が増す。
ケガレを払う力としての仏教が求められる。
ケガレを清らかにする”職能”集団として特殊な人々が認識される。
一方で、ケガレを払い、清らかな世界へ生まれる・・・”浄土への往生”という救いとしての仏教が受け入れられ・求められていくようになる。

そして浄土思想は、すべての衆生に救いをもたらされるという点において民衆にも広まる。
ケガレを越えて民衆の葬送への関わりもはじまる

>眠。

2013年9月1日日曜日

「一向一揆歴史館」に行ってきたの巻の4


(承前)
近江には、蓮如の父・存如の頃からすでにお念仏の信仰は広まっていた。
湖北の長浜・彦根、湖西の堅田では門徒が大きな力を持っていた。
近江全域の門徒を組織化したのが蓮如と言われる。
太閤検地時の史料では、近江は当時六六ケ国の中で、第二位の生産力を誇っていた。
堅田はその交通の要衝としてにぎわいを見せていた。


堅田・本福寺は一帯の門徒の中心であった。
三世の法住の折りに、研屋・道円、麹屋・太郎衛門とともに、大谷・本願寺の六世・巧如に帰依したといわれている。
1460年に連如は、法住に十字の名号を下付している。

穀倉地帯である金森(守山市)には、お念仏の道場として金森道場があった。
第七世・存如に帰依した道西坊善従が、連如が得度した1431年に建立した。
金森をたびたび訪問する連如は、1461年には御文章を道西に授与したという。

穀倉地帯であり、交通の要所である赤野井にも、1464年、惣門徒の本尊として、宗祖の御影や「四幅の御絵伝」を授与されている。


しかし、近江と言えば、比叡山の影響強い坂本がある。
堅田門徒による本願寺派の普及と、比叡山との確執がはじまったのではないかと言われている。
実際に、法住の本福寺へあてた文書には、「再興への嫉視を招いたものによる」と記されている。


1465年 寛正の法難
比叡山による、本願寺攻めがはじまる。
具体的には、比叡山西塔下、祇園社の犬神人や坂本の馬借らによる攻撃がはじまったという。
蓮如は近江の金森・赤野井・堅田の門徒に助けられる。
京都大谷の本願寺坊社は、祇園社犬神人に与えられたという。