2012年10月14日日曜日

比叡山のお散歩(花摘堂で調べものを思いつく)

滋賀方面からケーブルカーを使わないで、根本中堂へ向かうには、いくつか道があるけれども、日吉大社のすぐ横からまっすぐ歩いていくと、「花摘堂跡(はなつみどうあと)」へ向かう枝道がある。

「跡」なので、細道を進んでも写真のような石碑と看板しかない。
けれども、他の注目されていない祠などに比べるとずいぶん立派なものだとも言える。

ここにあったとされる堂は、伝教大師の母・妙徳が大師を訪ねた折に、ここまでしか来られなかった地点で、後に、智証大師の母を祀る堂が建てられ、両大師の母を偲ぶ場所になったものだという。

「花摘堂」という美しい名前の説明で気になったのは、堂が建てられて「この地に花を供えることが許された」という部分であった。


当時は、比叡山の中に勝ってに立ち入ることができなかったのか、
勝手に花を供えてはいけなかったのか。

それとも、女人が立ち入ることができない、という意味もあったのか。
(だんだん、そうじゃないかと思えてきた)
ちょっと、女性と比叡山は調べて確認してみたいと思った。

もうひとつは、「花を供える」という記述。
死者に花をという習慣は、古くは古事記にも記述があるそう。
だが、供える、というのは、死者を弔うという習慣自体が、社会階層でいえば貴族や高僧から広まったとされているから、ここでの記述はだいぶんみんなに広まった状況が描かれていると思う。

さらに、死者を弔うことと、仏教的な考えがすこしずつ近づいてくるのは、鎌倉仏教以来という説があるので、伝教・智証大師の母の話がいつごろの話なのか、確認してみようと思った。

花に関しては、華道という文化も、死者に花を挿花する立花から徐々にはじまったとされ、1300-1400年代からはじまったとされている。

この時代の頃の、死者への対応や、習慣、仏教的な教えとの接近は、最近、興味あるところである。
当時の女性の立ち位置という問題にも考えが及んで、
山の中でちょっと勉強してみたいことができたのであった。


あ、そういえば、確かに散歩してて山ガールが流行っていることはわかった。