2014年5月21日水曜日

(展)野崎観音いま・むかし

(展)「野崎観音いま・むかし」大東市立歴史民俗資料館

●野崎まいりは江戸時代の大阪の観光名所である。
娯楽であり、旅であり、癒しである。
「来・ぶらり」館で知られる大東市の歴史博物館では、野崎まいりまでの歴史が古代の様子から一連の流れとして概観できる。

●古代から近代までの地形・地勢の変化と地域の発展の歴史がわかりやすくて楽しい。

縄文や弥生は長い年月なので、この間に地形そのものが大きく変わっている。
古には今の大東市地点が海浜にあたったり、環境そのものが今と全然違う。

●国家が形成される頃になると、街道が成立し、平安・平城・藤原・難波京とそれぞれの京との位置関係が示されている。

●中世初期には、いくつもの川と広大な池などの地図とともに、山の麓の「須波麻神社」が強調されている。
中世後期には、地形図の他、三好氏の台頭とともに「キリシタン」が広まったそうだが、やがて禁止令が下る。
かわって大阪に広まる浄土真宗が東方まで伝わる様子を、飯盛山の専応寺の話題をとりあげて紹介している。
そして近世には、新田開発と水上交通の拡大と安定を背景に、曹洞宗の慈眼寺に参る野崎まいりの盛況ぶりが紹介されている。

こうやってみていると、神社ーキリシタンー浄土真宗ー曹洞宗とこの地に影響を与えた象徴的な宗教が変遷しているようである。

●そんななか、ひときわ興味深いのは「池川魚取免許条々」という古文書であった。

中世の文書で領主の寺沢弘政に河川での魚取りの許可をもらう証文だそうな。
なんでそんな証文がいるのか、よく理解していないけど、とにかくそういう許可制という支配体制があったそうだ。

優先的に八ケ所・榎並の村はとっていいよ、ということが書いてあるらしい。
取っていいかわりに、毎日、魚と鳥を城に献上しろ、とあるらしいのである。

ともかく関心をもったのは、魚・鳥などの殺生はOKで、ふつうに献上しろってことだな。
これらの肉はふつうに、食べるんだ。
ということが、はっきり条文からわかるということだった。

最近、
肉食のタブーについて、そもそもがわかってないなーと反省しているので、関心深いのである。

●観音のこと書かなかったな