2009年1月4日日曜日

実習レポート 宝塚から 考える

◎オカタイ指摘、わかる人にしかわからない指摘、教科書みたいな指摘の仕方をします◎
語りを使ったレポートで、気をつけなきゃいけないこと・・・というよりも、皆が気をつけなきゃいけない重要な点がある。
語りで述べられている<できごと>、語られている<意見・見解・感想>などについての、執筆者自身の理解のスタンスである。
語りで述べられている過去の出来事は、体験された出来事であり、もうすでに起こったことであるから、彼らの体験的出来事という事実として紹介できる。そのまま過去の事実として紹介できる。
しかし、体験に対して意見が語られている場合もある。あるいは、社会の出来事に対する見解を述べている場合もある。
これらは、その人個人の主観的な思いであり、解釈である。
それはそのまま現象そのものを説明しているわけではなく、あくまでも語り手を通しての見方である。

言い方を換えると、不足しているのは、語り手が話してくれたことが自分たちの探っている課題についてどういう意味をもつのかという、語りの吟味である。
単純に、データの考察、という作業があいまいである。
よくある失敗例では、まるで、なにもかもが語りのままであるかのように書いてしまう。
インタビューでは、当然のことだが、語り手を通しての現実が語られている。
その語りの意味を吟味するためにいろいろかんがなきゃいけないことがある。
語り手は、例えば全ての宝塚ファンを代表できるのか、例えば宝塚歌劇団の状況を総合的に述べる立場の人であるのかは、語りを吟味する上で、最初に考察される課題である。
そのために、少なくとも語り手のプロフィールであったり、もっと積極的にライフヒストリーを採取しているし、レポートでは必要となってくる。
こういう情報から語られたことの意味や質を理解しようする。

また、別の方角から言い換えると、「書く」ことに無頓着であるとも言える。
筆者は書いたことがらについて、どこまでそれが正当性があるのか、責任をもたなければならない。少なくとも、なんで自分自身がレポートに書いたように言えるのかは(アリモトさんが指摘しているように)読者を説得しなければならない。
そのために、執筆者が、現状を伝える折りに、現状の原因を考える折りに、その現状の様子の理解の仕方や、原因についての見方は、どこから出てきたものであるのか・・・自分自身のFNからなのか、個人の語りなのか、あるいは語り手もさらに伝聞で語っているのか、が確認されなければならない。
その上で、執筆者が書こうとすること、表現しようすることは、こうしたデータを通して現れているのだと主張していく・・・ ・・・

◎おんなじようなことを何度もクドクド書いちゃいましたので、次は、個別の話題。
サメジマ レポート

1)宝塚歌劇チームは三人それぞれのレポートだったと思うので、テーマ性のあるタイトルが必要。
2)創成期の記述について、アリモトさんの指摘の通り。
3)観光パターンは千城さんからの体験的な語りとしてもう少し意識して、千城さんの語りをどう読みこむかという鮫島さんの声が必要。
4)ファンクラブの買い占めも元内部にいた人からの情報や目線としての妥当性を含むものかどうか、元関係者としての状況に関する情報が欲しい。例えば、歌劇団員は、当時、皆、そのように理解していたのか。現在、外から眺めていてそう思うのか。今でも誰か関係者と話していてそういう話がでてきた・・・つまり、現関係者自身がそのように考えているのか。ニュアンスだけになってもいいから「買い占めに関する意見」の状況説明が必要。
5)講演内容が難しい→集客にカゲリも同様。これは、どのあたりの情報からこのように述べることができるのか?

3)4)5)は、上部のコメントと根を一にしています。


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