2013年8月20日火曜日

文献がない:鎮めの文化論

『日本人の心の習慣ー鎮めの文化論』大村英昭


もういちど読み返して確認したいことがあったので、本棚を探したが、なかなか見つからない。

研究室を移動するたびに本もみんな動いているから、途中で手放したものや、タンス奥に入ったものなど、入り乱れてしまう。
だいたい、同じ職場で7・8回も部屋を移動しているのは、大学レコードものだと思う。
そして、移動のたびに荷物の出し入れは自前でやってるし。

ま、そういうわけで、実際の本が見つからない。
確認したかったのは、日本の宗教的特性のこと。
祟りー鎮める、ケガレ-キヨメルが日本の宗教的心情の基本だという点。

で、暑いので図書館にすら歩く気にならないので、スマホで、ネットサーフィンで、いろんな書評を見てあるく。
確か、NHKの人間大学で放送されたものを、図書にしたものだったと思う。
しかし、著者の名前すら忘れている。
調べたら大村英昭先生だった。

あ、そうすると、読み返すのに期待した内容とは違うかなーと思いはじめた。
いくつかの書評や出版にまつわって行われた大村先生の講演記録を見ていると、だいたいの内容を思い出してきた。
やはり、ちょっと確認したかった内容とはずれていた。

図書では、伝統的な宗教観をもとに鎮めの文化/(近代的な)煽りの文化という図式を描き、現代社会の鎮めの文化の可能性を、社会的に診断するような内容だったと思う。
忘れ去られつつある・失われつつある鎮めの文化・・・とその効能を再評価しとりもどそう、という方針だったように思う。
web公開されている大学の講演でもそのように語っている。

失われつつある鎮めの文化のありようについて、大村先生は家族や地域の機能としてかつてそのような文化の継承機能はあったのだけれど、いまや、大学などの教育機関を通じて伝承が講義されることを経験として語っている。
僕も講義などで語っているけれども、取り戻そうとは全然思っていない。
伝統的な文化は、今や大学生にとっては、全くの異文化と感じられる人もいる。
一方で、あいかわらず、伝統的な世界に生きている・・・というような両極端な状態が現在の情況である。

で、とりもどすでなく、何が変わり・変わらないか、またその地域性による文化の差異をフィールドを通じて学ぶことが重要だとは思うわけだが、最近では、言い方を間違えると、近代化される以前の"美しい"点を強調しているかのように受講生に受け取られてしまうきらいがある。

話それた。
とにかく大村先生の議論では鎮めの文化としての日本仏教もそのまま前提となっているようなので、自分自身の関心とはちょっとずれているようなのである。多分。

それで。
読み返して確認したかったのは、民衆宗教意識、宗教思想史としての鎮めの文化の特性や、その形成や変遷なのだった
どちらかというと歴史的な変動に分け入りたかったのである。
外来の仏教思想がそれらの文化と浸透しあっていく、その点の議論を聞いて見たかったのである。

日本の宗教は元来、「祟りー鎮め・ケガレーキヨめる」感覚軸で広まっていた。
古代から貴族の時代にかけて、日本に受容される仏教は、この延長上に「鎮め・清める」仏教として浸透する。
また、社会的情勢の変化の中で、地位向上を目指す侍たちのある種の精神性を与えるものとしても位置づけを得る。
そして、侍の時代の一方では、民衆の「救い」をもたらす思想として普及するものまで現れる。
(ついでにいうと、民衆の救いの浮上の背景のように登場するのが、葬儀に関わる仏教というスタイルで。)

密教系の宗派も含めて、そのほかの衆生の救済を願う宗派には、ある種の極楽観が見られる。
浄土系仏教でいうところの、いわゆる浄土だ。

日本の思想史・精神史をふりかえると、あの世感覚自体は、仏教にそもそも内包されるものというよりも、祟り・ケガレる思想の頃からのあの世観の延長上に出現するものととらえられる。
Buddismには、そもそもあの世感が希薄だ。
仏に成ることの思想だから。
しかし、皆を救う大乗系統の思想には、浄土のような、かの地が設定されており、かの地のあり方をどう考えるかに、諸流派の機微がある。

と、いうわけで、日本的仏教におけるあの世観と、土着伝統宗教のあの世観の連続性や非連続・・・それらの距離感について語ってくれる文献が読みたかったのです。

...何書いてるかよーわからんようになったから寝る

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