「進極楽往生 退無限地獄」
中学生の息子の社会科の教科書に掲載された一向一揆の旗に記された言葉。
戦い、進む先には浄土があり、退かば無限地獄しかないと訴えている。
一揆という言葉は、そもそも同じ方向にひとつにまとまって行く様子を指すそうだ。
一向宗の一揆は、人々がひとつにまとまり同じ方向に向かう集団力としての宗教の力を物語る。
■1.1
「鳥越一向一揆歴史博物館」行ってきた。
一向一揆専門の博物館は日本ではここにしかないらしい。
中学生の息子の歴史跡地探訪の宿題のために。
それと、自分の仕事の情報補充のために。
このあたりの情報をまとめる必要がある。
また、以前に鳥越を通りかかったときに気になることもあった。
■1.2
白山市鳥越の夏祭りは「一向一揆まつり」という大きな祭りだ。
昨年だったかの祭りのチラシでは、滋賀県・坂本の日吉大社をまつる神輿が、鳥越祭りに参加すると喧伝されていた。
加賀の山ノ内衆たちを中心にした一揆と滋賀近江坂本との結びつき・・・
大阪の寺内町や紀伊の雑賀衆などの一向宗つながりは朧気に知っていたが、当時の社会の動きのダイナミクスをあらためて感じたような気がした。
■1.3
近江では一揆自体が、早い。
1428年には正長一揆というのがあったらしい。
坂本で馬借が徳政を求めて始まった一揆だそうだ。
この影響は大きく、京都や奈良にまで一揆の火が広まった。
日枝の山(比叡山)の麓に広がる坂本の地や、堅田方面は、湖上運送などもあって、早くに商業的に開けていたらしい。
比叡山をはじめとする権力者に追われる新興勢力本願寺を代表する蓮如も堅田を頼りにやってきた。
一時は、既に開かれていた金森道場(野洲?守山?)にも立ち寄っていたが堅田にて一揆となったという。
1465年、近江一向一揆である。
堅田の門徒、法住に匿われていた頃である。
場所は本福寺。
法住は染物を営んでいた。
他に、堅田門徒には桶・研・油・麹などの仕事があったという。
当時の惣村の発展が想像される。
(大きな背景に貨幣の流通・貨幣経済の発展とかなんとかという歴史もある。
また、物流システムとしての琵琶湖周辺という地勢上の歴史もある。)
■1.4
蓮如を中心に庶民の一向宗の勢いがたかまると、その勢いを恐れる比叡山をはじめとする支配者層は、一向宗の弾圧を行う。
比叡山からみれば、一向宗は異端である。
一向宗は、仏・法・僧という仏法のいわゆる三宝にこだわらない。(と、比叡山はみている)
ひたすら六字の名号の称名に専念する。
三宝を敬い、当時の日本仏教の総本山ともなった比叡山天台宗からすれば一向宗(浄土真宗)は異形の信仰となる。
比叡山とは、和解が成立したといわれるが、その後、法住たちの琵琶湖輸送の助力もあり、蓮如は越前の吉崎へと向かうのであった。
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この記事は、とめどなく、次へと続いてしまう。
(それで、参考にした文献は、どこかでまとめて書く←まじめかっ)
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