2013年9月1日日曜日

「一向一揆歴史館」に行ってきたの巻の4


(承前)
近江には、蓮如の父・存如の頃からすでにお念仏の信仰は広まっていた。
湖北の長浜・彦根、湖西の堅田では門徒が大きな力を持っていた。
近江全域の門徒を組織化したのが蓮如と言われる。
太閤検地時の史料では、近江は当時六六ケ国の中で、第二位の生産力を誇っていた。
堅田はその交通の要衝としてにぎわいを見せていた。


堅田・本福寺は一帯の門徒の中心であった。
三世の法住の折りに、研屋・道円、麹屋・太郎衛門とともに、大谷・本願寺の六世・巧如に帰依したといわれている。
1460年に連如は、法住に十字の名号を下付している。

穀倉地帯である金森(守山市)には、お念仏の道場として金森道場があった。
第七世・存如に帰依した道西坊善従が、連如が得度した1431年に建立した。
金森をたびたび訪問する連如は、1461年には御文章を道西に授与したという。

穀倉地帯であり、交通の要所である赤野井にも、1464年、惣門徒の本尊として、宗祖の御影や「四幅の御絵伝」を授与されている。


しかし、近江と言えば、比叡山の影響強い坂本がある。
堅田門徒による本願寺派の普及と、比叡山との確執がはじまったのではないかと言われている。
実際に、法住の本福寺へあてた文書には、「再興への嫉視を招いたものによる」と記されている。


1465年 寛正の法難
比叡山による、本願寺攻めがはじまる。
具体的には、比叡山西塔下、祇園社の犬神人や坂本の馬借らによる攻撃がはじまったという。
蓮如は近江の金森・赤野井・堅田の門徒に助けられる。
京都大谷の本願寺坊社は、祇園社犬神人に与えられたという。

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