2013年8月25日日曜日

「一向一揆”歴史館”」に行ってきたの巻の2


正しい名称は、一向一揆歴史博物館ではなくて、一向一揆歴史館だった。
前の記事では間違えていた。

ともかく、加賀の一向一揆の背景をまとめようと、どんどん更なる過去の話のまとめになってきた。
過去に後戻り。
よくあることだ。
ブログ記事にするもんじゃないけど。
まとめるモチベーションを維持するために残す。

加賀だけじゃなく、近江の歴史まで振り返ってきた。
もう歴史館の内容を超越した。
ついでだから、近江から越前・越中・加賀の一向一揆を考えるための宗教的背景のいくつかを確認する。


まずは、近江比叡山の天台宗のはじまりから

778年、最澄は12歳で出家し、近江国分寺に入る。
最澄は、中国からの渡来人の子孫。
785年、19歳で東大寺で具足戒を受けた後、山林修行のため比叡山入り。
788年、一乗止観院(根本中堂)を建立。
805年、空海らとともに中国に留学生として選出されて帰国。
和田岬(神戸)に能福護国密寺を開く。
日本最初の密教の教化霊場らしい。
翌年、日本の天台宗がはじまる。
延暦寺という名称自体は、最澄が没した後の824年から。
延暦寺とは、東塔・西塔・横川の総称である。

その延暦寺のある比叡山の信仰となると、もっと古い。
古事記には、日枝山として比叡山が登場する。
近江国日枝山には大山咋神が鎮座していた。
京都の鬼門に位置し、城を護るとして信仰がはじまっていた。
日吉神社とは日枝神社と同義であり、神仏習合期に山王さんと称されるようになる。

これは、このへんで止める。


一方、加賀・越前の山岳信仰は、白山信仰として知られる。

717年、越前の僧、泰澄が白山を開いたとされる。
白山禅定道(登拝)は、加賀の白山本宮(白山比メ神社)、越前の白山神社(平泉寺)、美濃の長滝白山神社(長滝寺)の3つが有名。

白山信仰には、古くからの阿弥陀信仰に、熊野の阿弥陀信仰・蓮如の本願寺派の阿弥陀信仰が影響を与えたと言われる。

熊野信仰は、本地を阿弥陀如来とする。
(一遍も熊野本宮で、阿弥陀如来の悟りを開く)
(本地垂迹とは簡単にいうと、神々は仮の姿(垂迹)であり、その本質は仏(本地)であるとする説。
他宗教と融合しながら仏教普及に利する概念)
熊野の宗教的背景としてもっと古い記録では、日本書紀にイザナミ尊を葬ったところがあるとされている。
まあ、とにかく信仰の対象として古くからいろんな意味を持っていた。

この熊野本宮を護る氏として、鈴木氏が有名である。
(明治以降に、全世帯に名字が許される=義務化される依然の話なので、古い氏としての鈴木の話である。)
鈴木氏は本姓として穂積姓が知られる。
穂積姓を本姓とする鈴木氏は、神官を受け継ぎ、御師(おし)(先達)となって、特に東日本に信仰を広めた。

信仰が広まると、神社が建立するまで大木に鈴をかけて、信仰の対象にしていた。
その木を鈴木といったのだ、という話もある。
完成した神社には、本殿の切妻に鈴を下げた。
神社の鈴はその名残だという話もある。
そんな特徴があり、穂積姓でなくても熊野本宮の信仰の深いものには、鈴木姓が与えられてきたそうだ。

たとえば、戦国時代の話に出てくる三河の鈴木氏とか、雑賀衆の鈴木孫一の鈴木も、この熊野神官の鈴木の支流なのだそうである。

そして、正確な時期までわからないが、加賀にも熊野神官の一族である鈴木氏が訪れたという。
やがて彼らは土着し、二曲(ふとげ)氏を名のるようになった。
この二曲氏は、加賀一向一揆で有名である。

ああー。雑賀衆と加賀とのつながりがやっと見えてきたー。
加賀の鈴木ー二曲氏も、紀伊の鈴木ー雑賀氏も、本願寺派になったのですなー。

ちなみに、今回の文章で書いている本願寺派は、現在言うところの本願寺派とは違う。
現在の"本願寺派"は、"西本願寺派"を意味する。
これに対し、"東本願寺派"は、"大谷派"という。
蓮如の時代の"本願寺派"は、その後の戦国から江戸期にかけて、東本願寺(=大谷派)と西本願寺(=本願寺派)に分かれる。

この文章にある本願寺派は、仏光寺派・高田派・興正寺派という現在も残る諸派に対する、蓮如の本願寺派である。

ついでに、浄土真宗という名称も明治以降の名称である。
その前は一向宗という名前が有名である。
浄土なんたらという呼び方もあったのかな?
そこで気になるのは、一向宗というのは、周囲からの呼び名だけでなくて、自称でもあったのだろうか?という基本的なことなのであった。

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