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正しい名称は、一向一揆歴史博物館ではなくて、一向一揆歴史館だった。
前の記事では間違えていた。
ともかく、加賀の一向一揆の背景をまとめようと、どんどん更なる過去の話のまとめになってきた。
過去に後戻り。
よくあることだ。
ブログ記事にするもんじゃないけど。
まとめるモチベーションを維持するために残す。
加賀だけじゃなく、近江の歴史まで振り返ってきた。
もう歴史館の内容を超越した。
ついでだから、近江から越前・越中・加賀の一向一揆を考えるための宗教的背景のいくつかを確認する。
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まずは、近江比叡山の天台宗のはじまりから
778年、最澄は12歳で出家し、近江国分寺に入る。
最澄は、中国からの渡来人の子孫。
785年、19歳で東大寺で具足戒を受けた後、山林修行のため比叡山入り。
788年、一乗止観院(根本中堂)を建立。
805年、空海らとともに中国に留学生として選出されて帰国。
和田岬(神戸)に能福護国密寺を開く。
日本最初の密教の教化霊場らしい。
翌年、日本の天台宗がはじまる。
延暦寺という名称自体は、最澄が没した後の824年から。
延暦寺とは、東塔・西塔・横川の総称である。
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その延暦寺のある比叡山の信仰となると、もっと古い。
古事記には、日枝山として比叡山が登場する。
近江国日枝山には大山咋神が鎮座していた。
京都の鬼門に位置し、城を護るとして信仰がはじまっていた。
日吉神社とは日枝神社と同義であり、神仏習合期に山王さんと称されるようになる。
これは、このへんで止める。
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一方、加賀・越前の山岳信仰は、白山信仰として知られる。
717年、越前の僧、泰澄が白山を開いたとされる。
白山禅定道(登拝)は、加賀の白山本宮(白山比メ神社)、越前の白山神社(平泉寺)、美濃の長滝白山神社(長滝寺)の3つが有名。
白山信仰には、古くからの阿弥陀信仰に、熊野の阿弥陀信仰・蓮如の本願寺派の阿弥陀信仰が影響を与えたと言われる。
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熊野信仰は、本地を阿弥陀如来とする。
(一遍も熊野本宮で、阿弥陀如来の悟りを開く)
(本地垂迹とは簡単にいうと、神々は仮の姿(垂迹)であり、その本質は仏(本地)であるとする説。
他宗教と融合しながら仏教普及に利する概念)
熊野の宗教的背景としてもっと古い記録では、日本書紀にイザナミ尊を葬ったところがあるとされている。
まあ、とにかく信仰の対象として古くからいろんな意味を持っていた。
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この熊野本宮を護る氏として、鈴木氏が有名である。
(明治以降に、全世帯に名字が許される=義務化される依然の話なので、古い氏としての鈴木の話である。)
鈴木氏は本姓として穂積姓が知られる。
穂積姓を本姓とする鈴木氏は、神官を受け継ぎ、御師(おし)(先達)となって、特に東日本に信仰を広めた。
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信仰が広まると、神社が建立するまで大木に鈴をかけて、信仰の対象にしていた。
その木を鈴木といったのだ、という話もある。
完成した神社には、本殿の切妻に鈴を下げた。
神社の鈴はその名残だという話もある。
そんな特徴があり、穂積姓でなくても熊野本宮の信仰の深いものには、鈴木姓が与えられてきたそうだ。
たとえば、戦国時代の話に出てくる三河の鈴木氏とか、雑賀衆の鈴木孫一の鈴木も、この熊野神官の鈴木の支流なのだそうである。
そして、正確な時期までわからないが、加賀にも熊野神官の一族である鈴木氏が訪れたという。
やがて彼らは土着し、二曲(ふとげ)氏を名のるようになった。
この二曲氏は、加賀一向一揆で有名である。
ああー。雑賀衆と加賀とのつながりがやっと見えてきたー。
加賀の鈴木ー二曲氏も、紀伊の鈴木ー雑賀氏も、本願寺派になったのですなー。
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ちなみに、今回の文章で書いている本願寺派は、現在言うところの本願寺派とは違う。
現在の"本願寺派"は、"西本願寺派"を意味する。
これに対し、"東本願寺派"は、"大谷派"という。
蓮如の時代の"本願寺派"は、その後の戦国から江戸期にかけて、東本願寺(=大谷派)と西本願寺(=本願寺派)に分かれる。
この文章にある本願寺派は、仏光寺派・高田派・興正寺派という現在も残る諸派に対する、蓮如の本願寺派である。
ついでに、浄土真宗という名称も明治以降の名称である。
その前は一向宗という名前が有名である。
浄土なんたらという呼び方もあったのかな?
そこで気になるのは、一向宗というのは、周囲からの呼び名だけでなくて、自称でもあったのだろうか?という基本的なことなのであった。
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