2013年8月28日水曜日

「一向一揆歴史館」へ行ってきたの巻の3


(承前)

浄土真宗門徒は、室町時代の文章で「親鸞門弟」と書かれているのがあった。
ちらっと斜め読みした論文では、「初期真宗」は「一遍の時宗との混同」もありながら、一向宗と呼ばれていた事情などが議論されていた。

で、論文なんかチェックしだしたし。

そもそも村落組織だとか、貨幣経済だとか、徐々にそれらしい形になってくる時代の話だ。
宗教的な活動も、暮らしの様々な要素と分かち難く、後々の研究者が巧みに言葉を使って整理しなければならないものだろう。

とにかく、当時の人々が「それ」をなんて呼んでたかという疑問はかなり奥が深い。
認識自体の成立という社会史的な生成論とか気になってるし。
とっても、難しそうだし、面倒だから、いつかやることにする。


もうひとつ、真宗内の諸派の成立とその意味についても。
なんかすごい難しいので、いつかだな。

本願寺派は、開祖:親鸞→2世:如信→3世:覚如→4世:善如
木辺 派は、開祖:親鸞→2世:如信→3世:覚如→4世:存覚
出雲路派は、開祖:親鸞→2世:如信→3世:覚如→4世:善入
仏光寺派は、開祖:親鸞→2世:真仏→3世:源海~14世:経誉
興正寺派は、開祖:親鸞→2世:真仏→3世:源海~14世:蓮教
高田派 は、開祖:親鸞→2世:真仏→3世:顕智
山元派 は、開祖:親鸞→2世:善鸞→3世:浄如
誠照寺派は、開祖:親鸞→2世:道性→3世:如覚
三門徒派は、開祖:親鸞→2世:如導→3世:如浄

系図だけ手に入れた。

そこで、本願寺派第8世となった蓮如から、はじめることにする。

1457年、蓮如は本願寺の住職となった。
40歳を過ぎて、父・存如から引き継いだという。
けっこう、年だ。
そして、もちろんそれは跡目争いの末の継承だった。


蓮如を推したのは、存如の実弟である如乗という人。
蓮如の叔父にあたる
年齢は、蓮如より3歳年上。
如乗は、31歳で二俣本泉寺を建立した。
蓮如の次男の蓮乗は本泉寺に如乗の娘婿として入る。
(蓮乗という名前自体、蓮如と如乗の間の子ドモミタイダ)


一方、本願寺跡目争いを蓮如と争った敵役は、蓮如の継母の如円とその弟・応玄という。
跡目争いにやぶれた如円・応玄は、経典などを持ち出し、大杉谷(in加賀)に逃がれた。
(やっぱり、加賀の国なのか。後々、如円は死去、応玄はもどる)


そんなふうに跡目争いが起こっていたが、本願寺は貧窮していたという。
本願寺派は他派の隆興に比して、門徒も少なく貧しかったそうな。
で、蓮如は、なんとかしようという意識が高く、研鑽も熱心であったそうな。

新たな本願寺住持となった蓮如は、あの布教・強化システムをスタイルとして確立する。
「おふみ(御文)」、「御文章」によって”説明”され、木像でも絵像でもない、六字の「名号」の「下付」という制度化による布教・教化システムの登場である。

全然宗教に関心がなくても、「御文章」にはときどき出会うと思う。
家の宗派が浄土真宗の場合、知らない人でも葬儀や法要で出会う、と思う。
「白骨の・・・」というものとか。

実際に、読んだり聞いたりすると、書いてあることがわかったような気になることもある。
読みながら、これは親鸞ではなく蓮如の言葉なのだなぁと、法要の成り立ちついて考えてみる。
妻の葬儀の荼毘の直後の法要で、白骨の・・・を聞いてるうちに葬儀中はじめて涙が出てきたという思い出がある。
はじめて御文章を頭を垂れて聞いたような気がしたものである。
これは難しい感情で、ムカつきやらいろんなものが混在してたけど。
言葉というものには、本気で感じ入る・傷み入る時期っていうものがあるんだよねー。


話、逸れた。
御文章による教義解釈システムと、名号の本尊を本願寺から下付するというシンボライズは、教化として成功を納めていったらしい。

「御文章」とはつまるところ、蓮如の言葉で、教義をわかりやすく説明してやったものだ、と思っていい(と思う)。

本尊(六字の名号の掛け軸)は、傷んだら本願寺に返納して新しいものと交換してもらえたらしい。
本願寺を本山とする末寺とのつながりは、こうして精神的にも経済的にも強化されたのである。
経済的に、というのは、本尊には御礼金納入システムもあったそうである。
そして、貨幣経済が成長し流通の発達する時代、湖上輸送に潤う堅田門徒もいたのだ。

無理矢理、近江の話にもどした。

(つづく)

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