2013年8月14日水曜日

文献から:「A3」森達也

「A3」森達也

大先輩の西光さんに紹介されて浄土真宗西本願寺派の法華会に参加したのが、2012年の夏。
そのとき聞いたのが、森達也さんの講演。
その夏の、ブログの下書きがたまっているのに気づいたので、もう昔の話だけど、お礼かたがた公開する。

西光さん、今度、害獣となった鹿たちを見にいかせていただきます(笑。

法華会での森達也さんの講演はおもしろかった。
著書で拝見した浄土真宗や親鸞の仏教に対する森さんなりの理解が、実際に確認できたことが自分自身としては印象的であった。
一方、講演後の若手僧侶との対談は、僧侶側にはちょっと荷が重い感じであった。

あの対談を積極的にとらえていこうとするなら、
(絶対言えないことだと思うけど)抽象的に講演打ち合わせ時の社会の中の孤独を語ったのだから、もっと積極的に、宗教のカルト性や信仰で人を殺すまでのあり方を、仏教徒として自分に照らし合わせて語ってみたらどうだろう。

真宗の人はまじめだから、そこまで考えると思うし、
教祖をとりまく現況のわけのわからなさは、社会的課題になり過ぎて切り込みにくいけど、

宗教にはまる、という営みが事件の背景となることについて、あれは同じ社会を生きている人間の活動であり、おなじ社会意識を根っこにして起こる出来事として・・・つまり友人または自分が引き起こす事件として語ることはできないだろうか。
わたしはなぜ、あの事件の当事者にはならなかったのだろうか?
あるいは、情況さえ整えば、可能性はあったのではないだろうか?

あれは宗教にはまりやすい人がおこした特殊な事件である。
宗教にはまるのはこわいよね、と切り分けることは簡単で、理解したつもりになってしまう。
しかし、切り分けているから風化してしまうのだとA3では語られている。
それに、そのように切り分けるのは、真宗の情況もまた『』に閉じこめて、親鸞ブランドに彩られた日本社会で特別な価値を持つ宗教の老舗として認識する切り分けと、おなじことだと思う。
あれは変な怪しい宗教で、こっちは伝統的な宗教です。
この切り分けが、自然に出てくること自体、おかしい。
(もしも僕がキチンと話を聞いていなかったならゴメンナサイ
だ。)

さて、A3は講談社のノンフィクション賞を受賞したこともあり、講演に誘われる以前から所有していたが、誘っていただくことで、ようやくきちんと読むことができた。
特に刑務所内でのおそろしい情況が印象的であった。

社会から刑罰を与えられることの意義
・・・真実を求めること、と、社会から処罰されること、そのバランスを考え抜くこと。
国家/(日常)社会の権力への批判的まなざしがそこにはある。
僕個人は、国家というよりも、国家を支える背景としての(日常)社会のあり方(=人間生活)に関心があるので、日常生活意識批判として大変勉強になった。

とりくみ難い対象テーマに入り込み、社会に対して挑発的見解を果敢に述べる・・・そんなリベラルな姿勢が印象的な書物だが、僕自身は、なぜか何もなくなってしまった事件の舞台となった村を後日譚のように訪れたシーンが印象に残った。

うがった見方をすれば、書くことがなくなって付け加えたような場面に思えるし、ただのエピローグにもみえかねないが・・・
事象が起こった現場を何度も訪ねる、この意義は取材者として考え続けていきたい課題・・・と読みながら感心させられた。








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