2013年7月29日月曜日

文献記録・「在家仏教」8月号から

FBともだちで大先輩の西光さんが紹介されていた文献、読んでみました。

赤池憲昭 読み替えられる死 −日本の現状に寄せて 『在家仏教』2013年8月号

内容
・日本人の死の受け止め方は1970年代から変わってきた。
・死の受け止め方について、実践面と思想面から考察する必要がある。
・実践面では、医療活動における「延命」から「看取り」重視に変わった。
・思想面では、宗教議論における「死後の世界」→「生き方の問題」に変わった
・この変化について、死生観についてのある方向性の転換ととらえて、具体的語りをとりあげてみる。

□重要な死生観の語り
デーケンの語り:死後の世界は証明できない。しかし、死後の世界は、現世の生き方に影響する。
日高:人生は遺伝的プログラム、その後は無。プログラムに演じ方は決められない。楽しく演じる
玄侑:あの世・魂は、あなたとわたしの関係性のなかの<できごと>。
養老:自分の死は不可知。二人称・三人称の死…周囲が死をどう受け止めるか
末木:他者としての死
柳田:自分の死を創る、身体性いのちと精神性いのち。精神性いのちの継続性。
柏木:生き方によって死に方は変わる。知らないうちの死と準備したい死、延命と看取りでの死の違い
竹内:どうにもならない、静かなる受け止めとしての、さようなら。こちらを生き切るー向こうへのつながり

□上記の語りは、さらに特徴的に分類される。
デーケン・日高:生の視野から死をみる
玄侑・養老:自分の死にはこだわらない
末木・柳田:生の立場から死/死後の世界のイメージ→「死」から「生」

囗新しい死生観には、全体に以下の特徴と傾向がみられる。
・「死」のシンボル的解釈
二人称の死による、悲嘆の死の立ち直りとシンボル化
「納得」の問題(/認知)
・「死」のシンボル
一人称によるやはり納得の問題

□まとめ
”死についての関心”は”「私」の存続”の問題として霊魂の実在が焦点となるよりも、シンボルとして「死の体験」をいかに受け止めるか・・・”死への「納得」”や”「死」という現象への意味づけ”が重視されるようになってきている。

まとめにいたる現状理解は、整理がわかりやすくてすっきりしました。勉強になりました。
けれども、特に何か目新しい結論とも感じなかったのは、多分、僕自身が、ライフヒストリー研究を通じて、「経験を語ることの意義」を考察する議論に関わってきたからだと思います。自身の死や病をどのように受け止め、あるいは近親者の死や病をどのように受け止めるのか、「経験としての”死”」という現象を、真正面から論じたことは自分自身無いけれども、いくつかの身近な人々の研究で出会ってきたと思います。
一方、この文献での「死にまつわる言説」自体の整理は、改めて確認する点もあり、新鮮な勉強でした。
・タイトルになっている「読み替え」というキーワードについて、このワードを選んだ意味あいの説明がもっと欲しいなぁと思いました。

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