2015年5月17日日曜日

比叡山 巡り

 ●昨日の土曜は、午前の講義の後、ぶっ倒れて爆睡した。
夜になって夕飯を作るために起き、夕飯後、「64」の最終回を見ながら風呂の順番を待っているうちにもう一度爆睡。
気が付いたら、朝だった。

床の上だけど、いつものことで、とにかく時間かけて、眠れた。
朝起きて陽気がいいのでとりあえず比叡山に向かった。
 午後からPCに向かって作業したいので少しだけ登ってくることにした。
入り口は、ここから。


適当に道を選んで登りきると、「恵心僧都」の墓につく。

学生さんから、質問のメールが届いたことに気づき、この場で返信する。
このあたりは熊蜂が多い。蝿も。
まとわりついて、「ええい、うるさい」と独り言を口にすると、
御墓のとなりに、半そでTシャツの女性がいることに気づいて、どきっとした。

メールしている間に、墓の前で大きく拍手を打って、移動された。
墓前で拍手。神になっているのか。

いつもだったら、上までくると、そこからうろうろするのだけど、
今日はここからすぐ別ルートで降りる。



降りると、飯室谷不動寺に出る。

千日回峰の本場のようなお寺。

 http://www.imurodo.com/index.html

多分、歩いてきたのは、この人たちも通っている道なんだろうな。

距離は約6km、高低差は約680m(と思う)。
たったこれだけだけど、腰から下はガタガタ。

2015年5月6日水曜日

ユカワハルナさんという青春

これも、かなり前の日記の下書きから。
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”湯川さん”を検索しているのだけどネットに頼るとニュース記事以外は、一方的にディスる発言ばっかりひっかかって、辟易した、という話。
情報を探すの大変。
 湯川さん的な青春を、ちょっと考えようとしたので、探したんだけど。

”後藤さん”をネットでディスる(というより何故か怒っている)のも目だつ気もがするけど、
いろいろな角度からの意見が出ていて、こちらは落ち着く。

ジャーナリスト、ジャーナリズムのあり方を議論するのが多いかな。
これは報道の理論である。

後藤さんの親が反原発なので阿部総理が直接名前を出して哀悼の言葉を述べないという細かい記事もある。
 こういう面から、政府のあり方を議論するパターンも多い。
 これは報道と権力の議論である。

それにしても湯川さんという人物を記録する記事が見つけられない。
そういえば、支援してたという元議員さんがTVに出てたな。
何をどう、なんで支援しようと考えたのかな。

湯川さんという人生(青春)はある意味とても現代的な生き方に感じるんだけど、後藤さんに比べると圧倒的に情報が少ない。

事件後の湯川さんへの周囲の反応(無視・ディスる・哀悼少な目)も現代的・日本的だと思うし。
 
誰かが取り上げてそうな気がするのだけど……小説・映画などではとりあげるかな…

この、他人の情報待ちな自分がいけないのか。

(映)「ある精肉店のはなし」

もう、丸々1年前に書いた日記。
映画「ある精肉店のはなし」のはなし。
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貝塚市にある精肉店。
家族で続けてこられた屠畜・精肉・販売業。
映画は屠畜の様子からはじまり、
精肉を中心とした家族の営み、
地域の生活文化が淡々と、
ときおり本人のインタビューをまじえながら、
美しい映像で描き出している。

一日だけだけど、見学させてもらって話を聞いたところが映画になったのははじめてなので、不思議な体験だった。
文字通り身を乗り出して見てしまった。

家の裏の牛舎から市営屠畜場まで
くねくねとした生活道路をけっこう歩く。
カメラがその様子を映すために先回りしたり、どこかの屋上から俯瞰でとらえたりすると、事前確認がないと、こんなふうな絵にはならないようなーとか、なぜかそんなことが気になる。

屠畜や太鼓づくり、移動精肉屋、盆踊りのシーンでも
椅子から身を乗り出した。
家族の生活にかなり入り込んでいることで、生き生きとした暮らしの一面がとらえられていた。

一方で、変な違和感もかなり残った。
違和感というか、気恥ずかしさというか、ふと考え込んでしまう。
最初の違和感は、インタビュアーの声が入ってくるところだった。
ナレーションの声と同じだったので、おそらく監督の聞き取りだろう。
でも、声だけが登場し、画面は話している語り手だけだ。
1人語りにするか、2人対話にするか、どっちかを意識するのが、自分自身のひっかかりだったと思う。
そして、それよりもインタビュアーの(おそらく)若い女性の声が入ると、何故かすごく恥ずかしく感じるのだった。
なぜだろう。


また、インタビューシーンでは、他にも細かいつっこみを入れて独り言を言いそうになった。
こんなのは、映画見ていてはじめてだ。

おばあさんの語りについて、それしか使うとこなかったん?とか。
もっといろいろしゃべりそうなのに…とのど元まで声になりかかっていた。

たしかに表情豊かでご本人らしさが出ている映像なんだろうなーと感じたけれど、
もっといろんな語りがありそうな人だよなーと感じていた。
昭さんも「思い」の語りを使いすぎちゃうやろか、という別の違和感。
なんていうんでしょう。
・・・解放運動のストーリーのような、ある定式化した物語にのっかかったような、「思い」の語り方が、出てきているように思えた。
話しなれているせいなのかな。

・・・うーん、ブログで書いてたら、また、ごちゃごちゃ考え始めた
・・・とりとめなく、考え始めたので、この日記はここで終わります。

2014年12月17日水曜日

(展)バルデュス展はもちろん行ってきた

年末で、書き溜めた日記のそうざらえ

●バルデュス展はもちろん行ってきた。
もちろん、前知識なし。
派手な広告の絵につられたようなものだけど。
美術館行く自分って高尚ー、みたいな感じだけど。

でも、そんな自分でも初見でいろいろ考える展示だった。
作者がスター扱い、作者自身の写真がかっこ良過ぎ、ビデオも渋すぎ、鼻につく。
でも、たしかに作品すごい。


●少年期の「mitsou」かわいい。
 

かわいいつながりで、ファンタジックで印象に残る「cats and girls」(1949)














ますむらひろしさんの「アタゴオル」を思い出したのは私だけではないだろう。
でもアタゴオルは1970年代の連載開始だから、こっちのほうが古いのか。
斬新だなー。”猫男”と僕は呼ぶ。


●コミック的というと、初期の作品に「嵐が丘」の小説の挿絵があって、なんかデッサンがくずれたような感じに魅入ってしまう。



















「諸星大二郎・・・」。これらの挿絵を見ながら、尊敬する漫画家の画風を思い起こしていた。


●ところで、このバルデュルス氏は、同じ構図をいろいろと書き直す作家のようであった。




















バルデュス本人が描かれているとか、人物の描写でとりわけ女性の肌に象徴される白が体の輪郭からにじみ出ているとか、 裸身を描くというセンセーショナルなどいろいろ解説されていた。
代表的な図らしい。
これが、一つ前の挿絵の構図と同じである。


●さらにそのひとつ前の挿絵と同じ構図もいくつもあって、






















と、同じ姿勢の女性が何度も描かれている。

そして、描かれた顔がなんか怖い。


●ときどき顔が怖い絵がある。特に女性。
頭に残ったのは、ヨーロッパ時代の若かりしころに描く女性の、壊れ(壊し)具合である。

禍々しいとまで、感じた。
 



















展示にはなかったと思うけど、後でwikiで見た上の「guitar lesson」はかなり衝撃的。

なんか、特に女子を破壊的に描くように感じる。

ポーズ自体が、なぜ、このポーズを選ぶ?と思う。
















グッズの図柄にもよく使われていた上の「テレーズの娘」は、色使いや構図の華やかさ、テーマモチーフの猫の登場などが解説されていた
僕自身は、近くで見て正直衝撃を受けた。
スカートの中のパンツまでこうまで執拗に描くのは、どういう感覚やねん・・・

悪意・・・というか、破壊の意思みたいなものを感じるんだけど・・・とにかく、すごく攻撃的に感じる。

描かれた女性のポーズや表情に、描く目線が持つ破壊性や攻撃性を感じるのであった。



●そのように攻撃性や破壊性を感じたのだが、晩年の日本時代になると、日本女性と結婚し描かかれるもののなかに、質の違ったものを感じるようになる。















 さっき、紹介したうつむき加減の女性たちに構図自体は似ている気がする。

けど、姿形はもっともっと崩れていて、そして、色自体がさらに輪郭と外界が滲みあって混合している・・・
破壊性というより、溶解性という言葉が浮かんできたのだった。



●あーおもしろかった。バルデュス展。初見なのに。
作品のふり幅の大きさと、作品と連動した作者の生き様を感じる。
もっともっと深いんだろうな。

ほかにも、いろいろ考えたんだけど、最後に気に入った絵をあげて終わり。
「崖」です。
















ちょっと近くでも、かなり離れても、光に照らされる木と岩壁が眩しかったです。
美しかった。

2014年12月10日水曜日

フォルラン様の最近のさまざまなネット上の記事

以下のフォルランに対する報道は、最近のちょっと悲しいニュースでした。

フォルランが南米メディアでチーム批判「日本人冷たい。降格して笑っている奴がいた」
「フットボールチャンネル」

(最近、見直してみると、

「※初回掲載時、一部で誤訳がありました。訂正してお詫び致します。」

と訂正と謝罪が最後に加わっていました。後の記事でわかりますが、かなり文脈の誤読があった記事のようでした。)


この記事をきっかけに、

フォルランの日本人批判にセレッソ大阪サポーターが激怒「おまえが言うな」

のような関連記事も出て、
ネット上では、「日本人批判」「チーム批判」を行ったフォルランに対する
バッシングのような記事が増殖しはじめました。

フォルラン様信者な私も、そんなケチな発言したのか、
シーズン終盤の扱いの悪さや自身の成績不振や
契約時に比べての環境変化にストレスが溜まり腐っているのか、
と、ちょっとがっかりしたり心配したものでした。

そんなおり、


ウルグアイでのフォルランのインタビュー内容、実際はどうだった?

という、冷静で良心的な記事に出会いました。

この記事に翻訳紹介されたところが正しいとすると、
フォルラン選手は、やはり一流のプロフットボーラーであると思われました。

インタビューでは、日本のサッカーのひいては日本の社会と教育の弱点までも分析され、
日本のサッカー事情を理解しようするフォルラン選手の様子がうかがえます。

オシム語録以来、フットボール先進国の知が、
日本のフットボールやスポーツ文化・日本社会を分析する言説に注目が集まるようになりましたが、
久しぶりに選手の立場からの骨太の分析に出会った気がしました。

骨太というのは、状況に揺れ動く自己を反省的に見つめながらも、
自己をとりまく社会関係の状況も理解し、
そのような状況のなかで、プロとしてアスリートととしてフットボールに生きるという自身を語る、
そうした生き様を語る側面を感じたからです。

優秀な選手の自己語りの巧みさと表現の豊かさを感じたのでした。

2014年9月14日日曜日

(展)曾我簫白 鳥獣画の研究

去年書きかけの記事が下書きにいくつか残ってる。
多分、写真をつけて、文章練り直してとかめんどくさいことを考えている間に忘れてしまった文章だ。
ブログが空き家みたいになっているし、GWなのにコラム原稿で引きこもるの飽きたし、、アップしよう
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香雪美術館というハイソな街のこじゃれた美術館に行ってきた。
曾我ショウハクのは鳥獣画の展示である。











ショウハクは人物画の方にインパクトがある。
どうみても不気味な顔にしか思えない。




















でも曾我ショウハク見たくて行ってきた。

感想:もう鷹図だけでもお腹一杯で、見飽きませんナー。
しばらく絵の前で寝泊まりして、あーでもないこーでもないと考えたい。

ポスターになってた青色の鬼と釈迦童子の雪山童子は印象的だが、





















それよりも僕は鷹図!

どうやって色作ってんのかなー
背景の色づけすんのかなー
構図、頭に浮かんでんのかなー
鷹や鶴の足や羽の描き込み
背景・構図の荒々しさと緻密な描き込み
春夏秋冬の鷹図の描き分けでの雪の白さ
墨の濃淡で見せる表現

大きなふすま絵などが有名なのだけど,細部に具とれていました

2014年9月5日金曜日

(映)2013はBLANCA NIEVES(ブランカ ニエベス)





「ブランカ ニエベス」って何だ?

どこかで聞いたことあるような…

全然意味がわからないのに、お金払って入ってしまった。

以前、ちらっと見た予告映像は、モノトーンの映画で若い女性が闘牛士をしていることだけ記憶に残った。

映像が、”なんかキている”感じがした。
「ハンナ・アーレント」を見に行ったのだが、後回しにすることにした。


ミニシアター行ったのは、数年ぶりだ。
最近は、家族連れの喧騒に沸き返るシネコンばっかり。
久しぶりに来てみると「ここは美術館か!」と思う。

タッチ画面のチケット販売マシンなんかない。
カウンターのみの窓口は手作り感があっていいのはいい。
だが、なんか「映画って芸術です」的なハイソ感が鼻につくような気もする。

初老のご夫妻や、小奇麗なご婦人方ばかりという客層。
小さな狭いロビーは、余計な音が一切ない。
せいぜい窓口のチケット購入時に出てくる軽口ぐらいだ。

この映画の前にみた映画は、あの「新世界国際映画館」での「ビザンチウム」。
上映中の頻繁な出入りの音と光、咳・独り言・鼻歌、前席にもたれかけた両足、座席で広げられるスポーツ新聞、4・5人でいっぱいになる小さな待合は煙草の煙で充満…となんとも賑やかな様子だった。

久しぶりのミニ・シアターは、静かで洒落ている。
ホール内は、さらに静かであった。
音が壁に吸い込まれるような気がする。

上映開始で部屋が暗くなった一瞬、
この部屋には他に誰もいないんじゃないかと思えるくらい静かになった。

真っ暗

誰かがゆったりした座席の上で腰の位置を変えた音が大きく聞こえた。


暗さのおかげだと思う。映画本編にはものすごく集中できた。

映画はモノトーン&サイレント。
そんなことも知らずに座席に座っていた。
音声は無いけど、美しいBGMがずっと流れ続けている。

特に印象に残ったのがスパニッシュギターや、カスタネットのリズム。
映画を見ている間、ギターを叩いたり、カスタネットをはじく演奏者の手の動きのイメージがずうっと頭の中に浮かんでいた。

一方、画面の美しさに文字通り目が眩んでもいた。
モノトーンの映像が、こんなにも美しいものとは。
ひとつひとつのカットが美しく、美術絵画を眺めているように感じた。
しかもその絵が動く。

「絵が動いている」
独り言を声に出して言いそうになった。

映画って”活動写真なんだ”と、この年になってはじめて気が付いた。


BLANCA NIEVES とは白雪姫のことだった。

この映画はスペイン的な文化と情熱で彩られた snow white の物語なのだった。

魔女も7人の小人もちゃんと出てくる。

白雪姫に模した現代の寓話のような物語、というよりも

寓話の形を模した現実の厭らしさを語る結末とでもいうべきでしょうか。